神保町系オタオタ日記

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昭和8年6月12日付け?坪内逍遙の花田一重宛書簡が行方不明ー2028年演劇博物館が開館100周年ー


 拙ブログ中の注目記事第4位に「昭和10年3月坪内逍遥の葬儀に伴う妻坪内センから岡山の教育者花田一重宛礼状 - 神保町系オタオタ日記」が浮上。今頃アクセスが増える理由が思い浮かばない。もしかしたら、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館が2028年に100周年を迎えるため「enpaku 早稲田大学演劇博物館100周年記念サイト」を開設したと旧Twitterでポストした(5月23日)ので、その効果かもしれない。
 さて、前記エントリーを書いた時に忘れていたが、花田一重宛書簡群の中に昭和8年6月12日付け消印と思われる*1逍遙からの封筒がある。封筒の裏には「伊豆熱海/坪内雄藏」とある。肝心の書簡は入っていない。売ってくれたpieinthesky氏によると入手した時点から空だったという。「日本の古本屋」の出品記録を見ると、奈良のキトラ文庫が金田一京助の花田宛葉書を出品して売り切れているので、花田宛書簡群が分散され、逍遙の書簡はどこかの古書店に渡ったのかもしれない。
 早稲田大学図書館の総合検索「WINE」で「花田一重」を検索すると、花田の「備中寶島寺の寂嚴」がヒットして、[1933.7?]、[東京]・[梓書房]とある。[ ]は推定を表している。図書扱いになっているので、抜刷だろうか。また、花田の「柿の蔕:備中玉島圓通寺時代の良寛/柿叟*2」もヒットする。こちらは、[1934.1]と推定されている。この両者の推定は、取り違いと思われる。というのも、前者は『藝術殿』1934年1月号(梓書房)掲載、後者は同誌1933年7月号掲載*3だからである。後者によると、1933年3月31日逍遙は、早大の杉山令吉講師の紹介で熱海の雙柿舎を訪ねてきた花田に初めて会い、『藝術殿』への寄稿を依頼したという。
 逍遙の封筒に入っていた書簡にはどういうことが書かれていたのだろうか。そして、今どこにあるのだろうか。
参考:「坪内逍遥は「沙翁」を「シヤヲウ」と読んでいたーー早稲田大学坪内博士記念演劇博物館職員の平塚義角から岡山の教員花田一重宛葉書からーー - 神保町系オタオタ日記

*1:昭和8年8月12日消印の可能性もある。

*2:「柿叟」は、坪内逍遙の別号。

*3:目次では坪内逍遙「柿の蔕」に含まれている。