神保町系オタオタ日記

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文展・帝展等美術展の絵葉書の使い方ー劉建輝編著『絵葉書にみる日本近代美術100選』(法藏館)刊行ー


 2月25日『京都新聞』に劉建輝編著『絵葉書にみる日本近代美術100選』(法藏館、令和6年10月)の紹介記事(佐久間卓也記者)が出ていた。日文研の劉教授が「手のひらサイズの美術館」と自負する1冊だという。個別の芸術家の失われた作品の代わりに絵葉書を使う研究者は多いが、文展等の出品作の絵葉書全体に着目した本書は画期的だろう。
 拝読すると、「あとがき」に、本書の元になった京都駅でのパネル展*1の開催に当たり資料蒐集の段階から助力・助言をした「寸葉」店主の矢原章氏への謝辞があった。寸葉さんは日文研による吉田初三郎の鳥瞰図蒐集にも協力していたし、大活躍ですね。
 文展・帝展・二科展と絵葉書の関係を説明する中に、注目すべき記述があった。

文展の「出品取扱規程」(図5*2参照)の中で、絵葉書の「調整」を引き受けるという広告のようなものがあり、出品する際に自分や友人贈呈用のための絵葉書を注文できることになっており、400枚作った場合は「金五圓」との値段を付けている。

 これを読んで、展覧会の入選者が出品した作品の絵葉書を使って自慢する文章を記載したものを持っていることを思い出した。平安蚤の市で入手。冒頭に写真を挙げたもので、第11回帝展に出品した山口昌之助の彫刻《銅色の女》の絵葉書である。差出人は、東京麹町の「山口マサーコ」、宛先は大阪市南区空堀町の和田正方、山口角子宛である。消印は、年不明で10月28日である。文面は、「国民新聞に僕の彫刻の批評が出ました」から始まっている。
 『文展・帝展・新文展日展全出品目録:明治40年-昭和32年』(日展史編纂委員会、平成11年3月)で調べると、確かに第11回帝展(昭和5年10月16日~11月20日)で《銅色の女》が入選していて、それが最初で最後の入選である。初入選した上に新聞の批評に登場したことが嬉しくてしょうがなくて、母親であろう角子に入選作の絵葉書を使って報告したのだろう。大家や会員である吉田久継、宮島久七、北村西望、加藤顕清の4人と共に初入選の自分が批評されたこと、「兄も叔父様も蜂須賀様も喜んで」くれたことを書いている。「蜂須賀様」が蜂須賀正韶侯爵でパトロンだったら面白いのだが。なお、差出人名が「マサーコ」になっているのは、家族の間でのニックネームなのだろう。

*1:「まなぶんか」in京都駅ビル・パネル展「日本近代美術への誘いーー日文研所蔵美術展覧会絵葉書の世界」(令和6年1月15日~28日)

*2:『帝国絵画新報』(大正4年9月1日)