
『日本近代文学館年誌 資料探索』第20号(日本近代文学館、令和7年3月)に「資料翻刻 高安国世宛野間宏/富士正晴書簡」*1掲載。偶然ではあるが、富士正晴記念館で9月28日まで開催中の「戦後80年富士正晴と戦争展」に富士宛国世の葉書の写しが出ていた。その中の昭和19年の葉書中にデュルクハイムが出てきてひっくり返そうになった。デュルクハイムは、ドイツ人で戦前の偽史運動に関わっていた人物である*2。
ということで、ドイツ文学者で歌人でもある国世について調べることとなった。まずは、『高安国世全歌集』(沖積舎、昭和62年10月)を読んでみた。残念ながら、デュルクハイムは出てこなかった。しかし、「太田喜二郎遺作展」の詞書がある8首*3を発見して驚いた。そのうち2首を引用しよう。
無料にて解放されし美術館かかる明るさも君にふさはむ
濱田青陵も叔父も若くして親しみし君を知らねば今日まみえたり
植田彩芳子「太田喜二郎研究ーーその画業と生涯」*4によれば、太田は昭和26年10月27日脳溢血で急逝。翌年11月27日から12月4日にかけて京都市美術館で「太田喜二郎遺作展」が開催されている。また、村野正景・植田彩芳子「近代京都の「アートと考古学」の一検討ーー「京都の画家と考古学ーー太田喜二郎と濱田耕作ーー」展の展示資料を題材に 2」*5で太田《黄不動拝観絵巻》(昭和5年)への説明中に濱田と共に高安安子夫人が拝観者として出てくる。
この安子は、国世の母である。『昭和人名辞典第3巻』(日本図書センター、昭和62年10月)によれば、高安病院長高安道成(明治5年生)の妻はやす(明治16年生)で、国世は三男(大正2年生)である。短歌中の「叔父」は、道成の弟で医師の高安六郎と思われる。六郎は、演劇研究者には高安吸江として知られているだろう。
太田喜二郎周辺の文化人のネットワークについては、「太田喜二郎人生最後の年賀状ーー津崎信子宛年賀状からーー - 神保町系オタオタ日記」でも言及したとおり令和3年11月から4年1月にかけて京都文化博物館で展覧会が開催された。その中で一番記憶に残るのが、太田が知人・友人から受け取った封筒の差出人の署名部分を切り抜き貼り付けた署名貼付帖であった。158人分あって、『近代文化人ネットワーク:太田喜二郎の周辺』(京都大学人文科学研究所みやこの学術資源研究・活用プロジェクト、令和3年)に全氏名が出ている。残念ながら高安一族は出てこない*6。ただ、「京都帝国大学をめぐるネットワーク」のうち「医学部との縁」として濱田の友人で医学部教員の清野謙次を通じて同学部教員とも関わりを持つようになったとある。実は、高安安子は清野の妹なので、高安一族は清野・濱田を通して太田と親しくなったということになる。国世自身は前記短歌によると太田と面識は無かったようだが、道成の兄高安三郎(月郊)も含めて太田と高安一族の交流が注目される。
参考:「昭和13年京都帝国大学総長濱田耕作の追悼会で太田喜二郎のスケッチ画を観ていた大場磐雄ーー植田彩芳子「太田喜二郎研究:その画業と生涯」への補足ーー - 神保町系オタオタ日記」
