神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

伊東忠太「法隆寺建築論」を連載した『大和学友雑誌』(大和青年会)と山田三良

 
 令和4年5月の「たにまち月いち古書即売会」(大阪古書会館)で、『大和学友雑誌』第15号(大和青年会、明治27年1月)を購入。55頁、編集兼発行者は岡本保官である。発行所の大和青年会は奥付では東京市牛込区神町67番地だが、挟み込みの附録によると、本郷区森川町53番地第10号に移転している。
 買ったのは、伊東忠太*1法隆寺建築論」の目次と緒言が載っていたからである。「特別寄書」として掲載され、編者の前書きによれば友人の大学院学生工学士忠太が去る11月造家学会で演説した草稿について、奈良県人たる者一読すべきものとして掲載することにしたという。末尾に「(以下次号)」とあり、次号以降に連載されたのであろう。奈良県立図書情報館が1号(明治24年3月)、3~7号(明治25年3月)を、天理図書館が1~15号(明治27年)を所蔵している。
 丸山茂『日本の建築と思想:伊東忠太小論』(同文書院、平成8年4月)43頁によれば、「法隆寺建築論」は忠太の生涯において次の3回書かれた。

初版 『建築雑誌』八三号 明治二六年一一月
補訂版 『考古学会雑誌』一の一~八 明治二九~三〇年(中断)
最終版 『東京帝国大学紀要』工科一号 明治三一年三月

 本誌掲載の緒言について、『建築雑誌』掲載分との校合ができていない。丸山著が引用する同誌掲載分の一部の緒言と比較すると、微妙な異同はある。しかし、おそらくは同一内容であろう。本誌は、山田三良『回顧録』(山田三良先生米寿祝賀会、明治32年11月)によれば、北畠治房主催の園遊会で知り合った在京の奈良県出身の学生で組織した大和青年会が発刊した雑誌である。目次と裏表紙を挙げておく。「大東合邦論を読む」を書いた山田三郎(ママ)と「批評に就て」を書いた山田談峰が当時帝国大学法科大学選科生だった三良である。後者では、匿名批評を批判している。

本誌創立以来凡そ1ヶ年、余か雑誌委員の席末に列せし間は、一切の文章皆其氏名を明示し、断して匿名を排斥したりし所以は、聊か是に鑑みる所あれはなり。爾来年を経、号を重ねるに従ひ、匿名の文章は文苑雑録に始まり、遂に論説に感染し、今又責任の最も重大なる批評に波及したるは、実に余の理解すること能はさるさる所なり。

 『大和学友雑誌』に関する先行研究はあるだろうか。
 

*1:実際の目次、本文では「伊藤」と誤植