『一寸』97号(書痴同人、令和6年6月)が刊行された。年4回発行なので、来年には100号を迎えるはずである。国会図書館には納本されておらず、「ざっさくプラス」(皓星社の雑誌記事索引データベース)に独自データとして目次を是非登載していただきたい雑誌である。
早速、丹尾安典氏の「原撫松の日記X」を拝読。そうすると、「武林無想庵の渡仏を助けた京都初の洋画商三角堂の薄田晴彦 - 神保町系オタオタ日記」などで紹介した京都初の洋画商三角堂(当初は三角屋)を創立した薄田長彦が出てきて驚いた。
(明治四十二年)
五月卅一日
(略)朝薄田長彦氏来訪。将来画家倶楽部の様の(*な)ものを作り、大に社会の購買力を観誘(*勧誘)せん計画ありと。同氏の考付きそ(*さ)う(*な)事也。【*「社会の購買力」を誘発するような「画家倶楽部」のようなものは、おそらく翌明治四十三年に薄田長彦が京都三条に開く「三角堂(当初は三角屋〈ミカドヤ〉と称する店であったらしい)」において具現化されることになるのであろう。大河内菊雄「関西の洋画賞[商]ー薄田長彦・森川喜助・山本源之助・大塚銀次郎・花房静也」『日本洋画商史』昭和六十年、美術出版社】。「*」は丹尾氏の、[ ]は神保町のオタによる注
丹尾氏が言及する大河内論文によると、長彦の三男芳彦の未亡人さゆりから聞いた話として、画商になるまでの前歴は全く聞いておらず、芳彦が京都に来る前、何ヵ所か転勤した覚えがあると言っていた程度だという。また、下山肇が芳彦から聞いたメモには、ニューヨークに滞在していた叔母を通じ、アメリカの日本人コレクター?が西洋美術品を日本で売りたいというので、貿易商だった長彦は画家の知り合いも多く、岡崎の自宅には吉田博らが訪ねてくるなど美術に興味を持っていたので、三条に三角堂を創立したとのことである。
長彦が三角屋を開くまでの前史は不明だったが、明治42年段階で撫松とある程度親しかったことが日記で判明したことになる。撫松は『知られざる正統ー原撫松展 伝えられた英国絵画のこころ』(原撫松展実行委員会、平成9年)の年譜によれば、明治40年11月にイギリス留学から帰国、42年当時は5月27日の故木戸孝允33年祭のため引き受けた肖像画が間に合わず、今後は期限付きの画は引き受けないと反省していた時期である。長彦が撫松の日記に登場するのは初めてで、三角屋を開設する明治43年以降の日記にどのような形で登場するのかしないのか楽しみである。また、大河内論文には大正5年頃とされる三角堂が作製した店内の写真の絵葉書「京都三条河原西入 三角堂 薄田美術店 其二」が掲載されていて、「其一」も含めて他の絵葉書を見つけてみたいものである。