神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

南天堂、牧野四子吉、そして梅棹忠夫へーー船木拓生『侠気の生態学:牧野四子吉と文子の鮮やかな日々』(ぷねうま舎)への補足ーー

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 船木拓生『侠気の生態学牧野四子吉と文子の鮮やかな日々』(ぷねうま舎、令和3年4月)。たまたま読んだら面白かった。新刊だが、善行堂に置かれるべき一冊だろう。昭和4年牧野四子吉は、人妻文子*1と東京から京都へ駆け落ちする。東京では百瀬晋に兄事し、南天堂に出入りしていた。大杉栄、宮島資夫、辻潤竹久夢二*2、『マヴォ』同人らと交流した。京都では北白川平井町*3に新居を建て、そこには四子吉が京都帝国大学動物学教室の嘱託(生物画担当)だった関係で、京大関係者を始め多彩な人達が集まるサロンになったという。今西錦司や森下正明らのポナペ島、大興安嶺探検の報告書の挿図は牧野が描くこととなる。出入りした「最年少学生」は梅棹忠夫だった。本書の対象外だが、後に北白川の梅棹邸も研究者のサロンになる。梅棹自身は意識していなかっただろうが、そこはもう一つの南天堂だったことになる。
 本書を読んで気付いたことを補足しておこう。
82頁 4号に四子吉が絵を描いた『キリヌキ オトギエホン』(オトギ社)について、「五号は出たのかどうか」としている。←「日本の古本屋」に7号(大正13年7月)が出品されているほか、8号が売り切れになっている。
87頁 南天堂出版部がゲオルク・カイザー『朝から夜中まで』渡平民訳・四子吉装丁の広告を出したが、「未出版か」としている。←石川県立図書館が所蔵している。大正13年発行。
96頁 「国民精神研究所」←「国民精神文化研究所
168・275頁 妊婦に紹介した知り合いの病院や治安維持法で捕まり、獄死直前に保釈された永島孝雄(京都帝国大学文学部哲学科哲学専攻卒)が死ぬ病院として「富田病院」が出てくる。←「戦前の京都で発行された健康雑誌『かゞやき』と富田精・富田房子夫妻 - 神保町系オタオタ日記」及び「「京大光線」の三浦恒助の経歴を明らかにした『洛味』の凄さーー古書クロックワークで発見ーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した富田病院だろう。院長の富田精は京都帝国大学文学部哲学科心理学専攻及び医学部卒で、妻房子は産婦人科医であった。
195頁 「京都への空襲はなくて終わった」←「吉井勇と河上肇の日記に記録された馬町空襲の真実 - 神保町系オタオタ日記」参照
 上記のほか、218頁で昭和23年と推定されている文子の日記が気になる。

一月三日(土)
 駒井先生のお仕事を少し始めたところへ徳田さん来宅。昼食を済ませると臼井さん坊やを連れて来賀。トランプ手品三種ばかりして遊んでいって下さる。(略)

 「駒井」は駒井卓、「徳田」は徳田御稔。「臼井」は臼井書房の臼井喜之介の気がするが、どうだろうか。

*1:多田等観『チベット滞在記』の編者。父親は、苦楽園を開発した実業家の中村伊三郎。

*2:四子吉は、震災後の『浅草』に中田恭二の名で「楽屋スケッチ(河合武雄ほか)」を描いていて、船木著は84・86頁で「この筆名は夭折の版画家、田中恭吉を思い出させる」などとしている。

*3:理学部植物学教室嘱託の田代善太郎も同じ町内に住んでいた。特に交流があった形跡は無い。「棲み分け」をしていたか。