神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

小田光雄『近代出版史探索』『近代出版史探索Ⅱ』(論創社)をいただく

f:id:jyunku:20200719163813j:plain
小田光雄先生から論創社より刊行された『近代出版史探索』と『近代出版史探索Ⅱ』を御恵与いただきました。本当にありがとうございます。特に前者は先生のブログと拙ブログの「セッション」となったテーマが幾つか収録されていて、光栄である。また、横山茂雄さんや吉永進一さんも登場する本に拙ブログが出てくるのも感慨深い。当時は吉永さんにも身分を明かさず、すべての人にとって謎の人物として活動していた。その後、私は南陀楼さんのインタビューなどに登場することになった。多分先生はインタビューを見て、私が横山さんや吉永さんと同じサークルにいたと知って驚かれたのではなかろうか。
さて、『近代出版史探索』について恒例の(?)補足をさせていただこう。469・470頁にma-tangoこと吉永さんについて、「吉永にはやはり注目すべき『平井金三、その生涯』も含め、いくつもの優れた論考がある。ぜひとも一冊の早々の上梓を期待したい」とある。ここは私も同感で、既に単著の刊行は予定されているようだ。また、504頁で三浦関造に関し、「三浦とブラヴァツキーとヨガの三位一体はどのようにして成立したのだろうか」とある。これについては、ネットで読める吉永さんの「近代日本における神智学思想の歴史」『宗務研究』84巻2号,平成22年がある程度解答になるだろう。
584頁に佐藤耶蘇基に関し、「『神保町系オタオタ日記』にも言及があるので、参照されたい」とある。拙ブログの「雑司ヶ谷の怪人佐藤耶蘇基 - 神保町系オタオタ日記」のことである。佐藤の『飢を超して』(第百出版社、大正14年9月)の露光「序」には、大正8年春に鬼子母神裏の土穴に入り丸3年経ったが、立ち退かねばならないことになり、「昨年の二月五日」上板橋下頭橋に小屋を建ててもらい移ったとある。この時期の佐藤の動向に関して、『嘉村礒多全集』下巻(桜楓社、昭和39年9月)収録の安倍能成宛書簡に記載があったので紹介しておこう。
大正11年4月5日付け書簡では、

(略)
昨日巣鴨の穴仙人佐藤耶蘇基の穴を見ました。それから今度彼が移転した上板橋の下戸橋の近所の精舎(六畳位ゐ)を見ました。会ひは勿論いたしません。巣鴨の穴での生活は中央公論で知つてゐます。そしてその日、少女は申しました。「穴のおじさん、男の子なら優しくするけど、妾達には意地の悪い厭な顔するの、男の子になんか字を教へたりしても、妾達には些とも教へないの、おかしな人」と、申しました。上板橋で近所の内儀さんが「女が行くと厭な顔するんですつて」とも申しました。(略)佐藤耶蘇基さんの戦ひも嘸苦しいことであらうと存じます。さうなるには全く必然があると思ひました。物好きでも酔狂でもないと思ひました。
(略)

佐藤が穴から出た時期について、前記「序」では大正11年か13年か不明だが、11年だったということが分かる。書簡を読むと、佐藤は女性嫌いかと思いきや、大正12年8月3日付け書簡では、

(略)佐藤耶蘇基は二十歳も年下の女と結婚したと先日私のところへ来て申しました。そのため瀬田氏(板橋の地主で彼に住居を与へてゐる人)に追はれてゐるが、自分はいつでも出て行くが、それでは瀬田氏の人格をかなしむと佐藤氏は申すのです。いやになりました。(略)全体真に自覚した人間なら、真に生活もす可きだと思ひますが、間違つてゐますでせうか? どうも穴仙人、いかさまと疑ひたくなりました。古の高僧などの乞食生活とはどうも違ふやうです。(略)

3年も穴居するような言わば変人でも、20歳も若い人と結婚できたようだ。佐藤は明治19年生まれなので数え38歳、相手は18歳ということになる。