神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『上方趣味』主宰者渡辺紫染の没年を『洛味』で確認

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『上方趣味』という雑誌が、大正4年4月から昭和17年1月まで刊行されていた。古本市でもよく見かけて、古書価も数千円位で高くはない。私は「趣味」は趣味だが、「上方」は好きではないので買ったことはない。発行年によって、和綴の袖珍本、横綴の枕本、四六判と異なるが、彩色木版手刷の表紙・口絵が特徴である。主な執筆者については、中之島図書館で開催された展示の資料「「雑誌『上方趣味』展」を参照されたい。泉鏡花、宇田川文海、江馬務田中緑紅、松阪青渓の名がある。主宰をしたのは、上方趣味社の渡辺紫染(本名・亮)という人物である。その紫染の経歴が積ん読だった『洛味』80集(洛味社、昭和34年2月)で多少判明したので、紹介しておこう。
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石田幸太郎「渡辺紫染氏追悼」によると、紫染は石田(Wikipediaでは明治27年生)より15、6歳程年長というので、明治11、2年頃生まれということになる。長らく西宮に住んで、『上方趣味』を発行した。西宮の自宅を戦災で焼かれ、令息の奥さんの実家を頼って茨城県下館市に住んだが、上方へ帰りたい気持ちで一杯であったらしい。しかし、その願いがかなわないまま、昭和33年11月28日急逝したという。
その他、石田によると、
・号は紫染のほか、立花粂之助、染松順之助、紅紫園主人等7、8はあったらしい。『上方趣味』で寄稿を依頼するのは2、3篇で他は全部紫染が色々名乗って書いた。
・『上方趣味』の発行部数は、500部程度ではなかったか。表紙や挿絵は木版手刷20何度刷という凝り方で、すたれゆく手工業の木版という芸術のために何らかの寄与をしたい気持ちもあった。
・岡本橘仙や磯田多佳と仲が良かった。岡本文弥や吉田文五郎とも深い交わりがあったと聞く。
・長男は東京女子大教授で英文学者の渡辺美知夫。甲南高校から東大英文科に行き、旅順の工科学堂の英語の先生になった。
紫染が西宮に住んでいたのであれば、「戦前の西宮で創立された蒐集家ネットワーク「西宮雅楽多宗」 - 神保町系オタオタ日記」で言及した西宮雅楽多宗と関係はなかったのだろうか。引き続き調べてみたい。