たまたま『紅葉舎類聚ーー名古屋・富田家の歴史ーー資料編』(富田企業、昭和52年9月)の「富田家日記」を読んでいたら、大英博物館のローレンス・ビニヨンが出てきた。富田は名古屋の財界人、ネットの「コトバンク」を見られたい。同日記は富田家の執事・高木久兵衛の手記である。
(昭和4年)
10月24日(木)一時過主人徳川邸へ御出懸、二時過御帰り。英国の人ビニヨン氏、大英博物館の陶器研究の世界的権威ホブソン氏、ラファエル氏、通訳、佐羽、原文次郎の各氏参り、高松定一氏後より参られ同席。本玄関より廊下を通り直に慶雲亭へ案内、陳列品一覧、夫より図書室に陳列の陶器を見らる。五時半辞去。(略)
ビニヨンは、松井竜五・小山騰・牧田健史『達人たちの大英博物館』(講談社、平成8年7月)によると、
大英博物館の日本美術コレクションの充実に大きな功績のあった人物に、ローレンス・ビニヨン(一八六九~一九四三)がいる。彼は実に多才な人物で、まず第一に詩人であり、戯曲も書き、しかも同時に美術史家、美術評論家としても活躍した。さらに、ダンテの『神曲』の翻訳者としても著名である。(略)
昭和4年当時、ビニヨンは大英博物館の東洋版画・線描画支部長であった。また、矢代幸雄『日本美術の恩人たち』(文藝春秋新社、昭和36年9月)によれば、三井家と大倉家が費用を出して、ビニヨン夫妻を日本に招待したという。奈良、京都、宮島を回ったとあるが、同僚のホブソンと共に名古屋も訪問していたことになる。ビニヨンの最期は、『達人たちの大英博物館』に書かれているが、ある意味でうらやましい最期である。
一生を大英博物館に捧げた「詩人そして美の愛好者」ローレンス・ビニヨンは、それを象徴するかのように一九四三年三月十日に大英博物館の閲覧室で死去した。