高橋箒庵(義雄)の日記『萬象録』巻8にとうとう民間精神療法家がデテキター\(^o^)/
(大正九年)
十月十四日
(略)
[印度伝来の精神統一法]
食後、麻布我善坊山本栄男方に赴けり。今夕は印度に十七ヶ年間滞在して精神統一法を研究し、帰朝後精神統一会なる者を設け、五日間の講義を以て其秘伝を教授すと云ふ四十前後の某と云へる男を招待したれば、其精神統一の実験を来観せよとの事に就き試みに出席したる次第なるが、其男は二十五、六の婦人と弟子二人を引連れて今や講義中なりき。而して其講義の趣旨は、人は信念に依つて生くべき者なり、信念堅固なる人は殆んど何物にも打克つ事を得べし、世に病気など言ふ者は多くは自から製造する者にして、万物の霊長たる人間が病気に冒さるべき謂れなしと堅く自から信ずる時は、其病気は治癒すべき者なりと云ふを骨子として説明を為し、其例証として畳針を腕に突差し斯くても血も出でざれば痛みもせざるは全く信念の結果なりと云へり。又同伴の婦人が当夜出席の医師に脈を取らせつゝ信念を以て其脈を止むる処を示し、又鶏に気合を掛けて其思ふ儘の形に直立せしめ、或は鋭利なる刀刃を頬の辺に当てゝ之を引けども斬れず、又彼の男が掌中に刃物を握り其上を弟子両人が手拭にて堅く縛りて両方より引き居る其際、刃物を一方に引き抜きたれども其手に負傷せざるなど様々の実験を行ひしが、畢竟催眠術の一種にて世間の興行物に於て屢々見る所を素人風に試演するに過ぎざりき。如何様此男の言ふが如く病は気より起る事あれば、信念に依つて或る病気に打克つ事あるべしと雖も是れは程度問題にて、如何なる病気にも打克つべしと云ふが如きは到底実際に通用すべき事に非ずと思はれぬ。且つ此男の人格甚だ卑しく言語亦野卑にして、往々興行師の如き態度あるを観れば今後此男の崇拝者が非常に増加すべしと思はれず、不審の廉あらば何事にても答弁すべしなど言ひたれども余は多寡を括りて別に質問をも発せず、午後十時頃辞去せり。
霊界廓清同志会編『破邪顕正 霊術と霊術家』(霊界廓清同志会、昭和3年6月)には、この精神統一会の術者に該当しそうな霊術家は見当たらない。高橋は名前を記録に残してくれなかったが、「此男の崇拝者が非常に増加すべしとも思はれず」というように、数万人いたと言われる霊術家の1人として無名のまま終わったのだろう。