神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

研究者にも忘れ去られたメソジスト派伝道師としての俳人岡野知十

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善行堂に俳書がまとまって入っていた。俳書そのものに関心はないのだが、もしやと思って奥付をチェックすると金尾文淵堂発行のものがあったので拾っておく。併せて、岡野知十『晋其角』(裳華房、明治33年3月)が100円均一に出ていたのでこれもゲット。岡野というと、「岡野知十と『家庭実習講義録』」に黒岩比佐子さんが寄せてくれたコメントが今も懐かしい。「岡野知十とは!予想もしない人名が出てきて、ワクワクしています」、この2ヶ月後黒岩さんは亡くなるから、どれだけつらい時期であったか・・・
さて、岡野の経歴にはあまり知られていない時期があった。『日本古書通信』昭和57年3月号の「柴田宵曲翁日録抄(9)」に次のような記述がある。

(大正十二年)
七月十五日 雨後曇
「宇宙」など久々に出して少しよみなどす。
五時すぎ飯したゝめて図書館に赴く(略)目録室にて島田筑波氏に遭ふ。岡野知十氏はもと宣教師たりしことあり、栗本鋤雲氏の弟子の由。翻訳などして生活されし時代もあるなりといふ話を偶然きく。(略)

俳人岡野が宣教師だったとは驚くが、『日本近代文学大事典』にそのような記載はない。ところが、『近代文学研究叢書』34巻(近代文化研究所、昭和46年7月)を見たら、メソジスト派の伝道師であった。関係する記述を年譜にすると、

明治14年6月 北海道函館師範学校附属小学校予備教員として赴任。キリスト教に心を寄せ、日本函館美似(メソジスト)教会主理伝道士松本総吾より勧士免状を貰い、米人グリーンに従い布教に務める。
明治16年 函館新聞(のち函館毎日新聞)に入社
明治21年 上京
明治22年 メソジストミッションスクール東京英和学校(青山学院)舎監となる。
明治23年 キリスト教の伝道士となり、雑誌『護教』編集のかたわら日曜学校の教師を務めた。
明治27年6月 再び函館毎日新聞記者となる。
明治28年2月 キリスト教からも離れ、新聞社を退いて上京
同年9月 知十坊の名で『東京毎日新聞』に「俳諧風聞記」を発表。好評を博し毎日新聞社に入社 
明治31年7月 戸川残花と共に『世事画報』発行
明治32年5月 報知新聞の相場担当記者のかたわら田口卯吉の『経済雑誌』にも関係 

ところで、ググると斎藤元子「米国メソジスト監督派教会女性海外伝道協会による明治期の日本における文書活動ーー雑誌『常磐』を中心としてーー」の「4.雑誌『常磐』」に「第2巻の割烹料理は、岡野知十という編集スタッフと思われる女性が、青山女学院女子手藝部の割烹教授赤堀峰吉氏より指導を受けた献立を「当季の手料理」と題してレポートしたものである」という記述があった。岡野を女性としていることに驚く。俳人岡野がキリスト者であったことは、日本におけるキリスト教研究者にはすっかり忘れ去られているようだ。