神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

山名文夫宛小山展司の年賀状ーー森山大道の師デザイナー小山展司とはーー

昨年の寸葉会で大豊作だった時に拾った一枚、200円。日本絵葉書会のお歴々は裏面の図柄をもっぱら見るようだが、絵葉書に限らず古本は人の見ない所を見なければいけない。本と本の間に挟まった背表紙にタイトルのない冊子とか足元の箱に無造作に放り込んである紙物がその例である。絵葉書も表面の宛名や差出人を見ると、時に驚くべき名前が見つかることがある。今回は多摩市の山名文夫宛昭和50年の年賀状である。裏面は、干支である兎のお面の写真のようだ。差出人である大阪市の小山展司は、知る人ぞ知るデザイナーらしい。青弓社編集部編『森山大道とその時代』の蔦谷典子「光の狩人ーー森山大道一九六五ーー二〇〇三」(青弓社、平成19年8月)によると、

一九五五年十七歳で大阪府第二工芸高校図案科を中退し、在学中から小山展司の主宰する「展司デザイン」で商業デザインに通っていた。この事務所が、フジカワ画廊のビルを借りていたため、画家の字治山哲平の画塾に通うようになり、絵画に熱中していく。(略)

より詳しいことは、意外にも坂本幸四郎『涙の谷を過ぎるともーー小山宗祐牧師補の獄中自殺ーー』(河出書房新社、昭和60年12月)なる本に出てくる。著者坂本は、小山宗祐の生涯を探る過程で、兄の展司に出会う。

(略)氏の名刺には、肩書がなく、仕事場の、大阪市東区瓦町××××、フジカワビル五階、とそこの電話番号がある。(略)商業デザイナーですと言った。フジカワビル五階のフロアーぜんぶ使用して、いまは正月用カレンダーのデザインで忙しいという。大阪宣伝美術協会の顧問をしているといわれた。業界では有名なひとなのだった。
(略)展司氏は、二十五歳のとき、昭和九年に小山スタジオを設立し、大阪凸版印刷株式会社の専属として商業デザインの会社をおこした。(略)

展司は戦前からデザイナーだったことがわかる。また、山名宛の年賀状を出した時は66歳前後だったことになる。山名とどの程度親しかったは不明。なお、同書によると、展司は昭和58年に亡くなったという。ちなみに、この本の主役である小山宗祐は、展司の弟で、17年函館本町のホーリネス系教会の牧師補であったが、靖国神社に対する不敬事件で起訴され、未決監房で「自殺」したとされている。14年の東京聖書学校入学の前に、展司の下で商業デザインの仕事を手伝いながら大阪美術研究所に通っていた。12年満洲建国五周年記念ポスターの全国応募に兄弟で応募し、宗祐の方が一等に当選したというので、兄と共にそちらの道を目指した方が良かったかもしれない。
一枚の絵葉書から、森山大道やらホーリネス教団の弾圧にまで話が展開してゆく。絵葉書の世界も奥深いものがある。

森山大道とその時代 (写真叢書)

森山大道とその時代 (写真叢書)