神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

鹿野治助の日記から見た物語「京都学派」再び

書砦・梁山泊の目録*1から鹿野治助(かの・じすけ)の日記を入手。博文館の『昭和十七年当用日記』に昭和17年1月1日から22年10月10日まで断続的に記載されている。鹿野は明治34年生、平成3年没なので、前後の日記も存在すると思われるが、本日記は敗戦前後という特徴的な時期に当たるので興味深い。
目録に「昭和十七年當用日記 鹿野治助(弘文堂教養文庫『ストアの哲人達』の著者)」とあったので購入したが、日記の執筆者が鹿野であることは、日記本体に明記はされていない。しかし、以下に見るように記載内容から言って間違いないところである。全部を解読できたわけではないが、幾つか記載を紹介しておこう。

(昭和十七年)
五月十八日 岩波書店よりソピステースの誤植訂正は□型で変へると云つて来る。

□は判読不能。鹿野は昭和7年岩波書店からプラトンの『ソピステース』の翻訳書を刊行している。

(昭和十七年)
九月十三日
午後西田幾多郎先生を久ぶりに訪問す。大変元気になられシヤツ一つで足をまるだしで藤椅子に腰かけ顔色もよし。発病以来一年なり。(略)高坂氏も来る。錬成所*2のことなど話す。辞して西谷君の病気を見舞ふ。熱降りし由。
高山氏を訪ねて後帰宅。

「高坂氏」は高坂正顕、「西谷君」は西谷啓治、「高山氏」は高山岩男と思われる。『西田幾多郎全集』18巻(岩波書店、平成17年12月)でこの日の西田の日記を見ると、

(昭和十七年九月)
13日(日) 鹿野[治助]*3来訪 高坂来訪

とあり、鹿野の記述と一致する。ちなみに、同巻の人名解説によれば、鹿野は、

鹿野(かの)治助[哲学](1901-1991) 昭和2年京大文学部(哲学)卒.大阪市大教授.ギリシア哲学,とりわけストア派の哲学の研究で知られる。『ストアの哲人達』(昭22)などの著書がある。

より詳しい経歴は「鹿野教授略歴・著書論文目録」『人文研究』16巻1号(大阪市立大学大学院研究科)に載ってるようだが未見。なお、鹿野は日記の書かれた期間中は京都高等工芸学校(19年に京都工業専門学校に改称。現在の京都工芸繊維大学)の教授であった。

(昭和十八年一月)
四日 翻訳。書初めにて梅と富士と二枚かく。夜遅く迄翻訳。
西田先生より葉書あり.
鉄舟のこと全く同感。とあり。

西田からの葉書については、『西田幾多郎全集』23巻(岩波書店、平成19年9月)に昭和18年1月2日付け鹿野宛書簡として掲載されていて、「鉄舟の事全く同感」との記載がある。
以上、鹿野の日記から幾つかの記載を紹介した。鹿野は、竹田篤司『物語「京都学派」』(中公文庫、平成24年7月)によれば、相原信作、樺俊雄、唐木順三高田三郎らと同年(昭和2年)京大哲学科卒業。一応京都学派の一員だと思われるが、同書には京都の弘文堂書房から刊行された「西哲叢書」のうち、プロティノスを担当した鹿野が「エクスタシス」の体験なしにはプロティノスを書けないとして、参禅を始め、厳冬の臘八接心に病気を押して努めたために卒倒したというエピソードが紹介されているだけである。しかし、日記により京都学派の哲学者達との交流の日々が再現できるかもしれない。

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

物語「京都学派」 - 知識人たちの友情と葛藤 (中公文庫)

*1:『書砦』47号、平成30年1月

*2:文部省国民錬成所か。日記によると昭和17年7月14日から20日まで入所。

*3:[ ]は全集の編者による。