100年前の1916年(大正5年)に数え26歳だった土田杏村。その土田の『妻に与へた土田杏村の手紙』(第一書房、昭和16年12月)を読書中。扶桑書房の200円の値札が貼ってあるので、東京古書会館で買ったか。大正5年5月から6年11月までの間に波多野千代子に送った書簡をまとめたもの。題名には「妻へ」とあるが、土田が千代子と結婚したのは同年11月なので、実際は帯にも書かれているように妻となるべき者への手紙である。土田のラブレターを読んでもなあとあまり期待をしていなかったが、意外に面白い。
たとえば、(大正5年)5月9日付けの封書には、
石丸君のやつてゐる『団欒』が来月は文藝号なので、道徳と藝術との関係について書いてくれといふ依頼をうけたので先月の終りに一寸長いものをかいて送つて置きました。(略)口絵に文士の写真を五六枚出すといふので、あんな女の雑誌に写真を出すのはいやだけれど、送つて置きました。(略)
また、同月28日付けの葉書には、
(略)雑誌『団欒』の文藝号の関西文士録に京都ではどんな人が居られるのだらうと思つて人名をくつて行きそれでも三四の人はやはり自分と同じ藝術の中に遊んでゐるのかとうれしくなつかしく存じました。(略)
とある。「石丸」とは、石丸梧平だろうかと思って検索したら、宮崎尚子「石丸梧平主宰の家庭雑誌「団欒」に関する調査」1〜5を発見。それによると、『団欒』は大正4年6月創刊。5年6月発行の2巻1号は「文藝号」で、「日本文士録(関西の部)」を掲載。ちなみに表紙画は水島爾保布。7年6月発行の「第四年紀年特別号」は「芝居と小説号」で、これにも「関西文士録」が載っているようだ。『団欒』の「関西文士録」、読んでみたいものである。