神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『小山完吾日記』に見る昭和天皇の憲法観

神津真人の迫水久常宛献呈署名入の『小山完吾日記』(慶應通信、昭和30年11月)を入手。小山は、「著者略歴」によると、明治8年生、34年慶應義塾卒、時事新報記者、衆議院議員を経て、明治生命常務、時事新報社長等を歴任。大正8年パリ講和会議には首席全権西園寺公望の随員として渡航。戦後は貴族院議員に勅選されたが、昭和30年7月没。神津は、小山の「自序」によると、親戚で九州電力東京支社長、本書の原稿の整理など出版に関する雑務を処理した。
小山はしばしば興津の坐漁荘に居た西園寺を訪問し、日記に記録を残している。

昭和八年十月二十九日
(略)
「今度の事件のはじめの頃、じぶんは陛下に申し上げたることあり。憲法が、もし不都合といふならば、正規の手続によりて改正も可なり。廃止もまた可ならん。しかし憲法にせよ、条約にせよ、改正もせず廃止もせず、現存のままにて、その違反を企つるがごときは、これ国憲を紊り、国際の信義を破るものなり、云々と言上したるに、陛下にも、それはもつともなり、と御嘉納ありたる次第なるが、軍人等のいふところは常軌の外にあり」云々
(右は軍人の一部過激の徒が、国法を蹂躙したり、また条約無視を企つる軍に対しての公爵の意見なり。)
(略)

今度の事件とは五・一五事件のこと。昭和天皇が直接述べた憲法観ではなく、西園寺の意見に同意しただけではあるが、貴重な記録である。昭和天皇は戦後のいわゆる解釈改憲にはどういう思いだっただろうか。