戦前の女優及川道子については、「忘れられた美人女優及川道子と堺利彦夫妻」などで言及したところである。『新派名優喜多村緑郎日記』第3巻(八木書店、平成23年3月)にも晩年の及川が出てきたので紹介しておこう。
(昭和十一年)
十月二十九日 晴曇雨
(頭注欄)
及川道子を新宿の北裏にある処の鴻上病院といふのへ訪ねる。病んで六七ケ月にあるといふ、気のどくなことゝおもふ。慰撫してくる。道子の母親といふ人から松竹のことなどをきく。病気で倒れたのち、葉書一本で断つてきたりしたといふこと、父親が城戸にあつたことなどきく。
(本文)
(略)
ーー昨夜帰宅すると、及川の母親からの電話で、妻が聞いておいたのだが、もう七ケ月も病院にゐるが、よそには知らせてもないといふのださうだ。さうして僕に、会つてやつてくれといふのだそうだ。道子は、映画をやめて、病が癒つたとしても舞台へ立ちたい、それで前から僕が崇拝なので、僕のことのみいつて夢をみたりするとよくいふ(略)病人の為とならいつてやらふといふので出かけていつた。
母親といふ人に先へあつていろ/\きいた上で、当人にあつた。ーー思つたやうな衰弱もなく、器量がいゝのに胸の病気といふので実にきれいだつた。
「城戸」は城戸四郎か。喜多村と及川はこれ以前に特に親しかったわけではない。日記第2巻によると、昭和8年3月12日に喜多村は及川に舞台のことを少し教え、及川は「舞台の方へ生活をうつしたい」と言っていたという。また、10年6月6日には市川紅梅と及川を京都の「アラスカ」へ連れて行ったという。この時、及川のそっくりさんがいて及川の名でファンにサインをしたりしていたが、朝日新聞の某氏の所へ嫁に行ったという話を聞いている。また、同年6月13日には及川が倒れたと聞き、胸の病気を十分に静養させろと言っておいたという。
及川が数え28歳で亡くなった13年の日記は残念ながら存在が確認されていない。同年の段階では忘れられた女優ではなく、朝日新聞や読売新聞に写真付きで訃報が掲載されていて、肩書きは「銀幕の女王と謳はれた元松竹スター」(朝日)、「元松竹キネマのスター」(読売)であった。
新派名優喜多村緑郎日記〈第3巻〉昭和11・12年・索引―新派創立五十周年
- 作者: 喜多村緑郎,紅野謙介,森井マスミ
- 出版社/メーカー: 八木書店
- 発売日: 2011/04
- メディア: 単行本
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