神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

植物学者田代善太郎、霊動をなし得たり

牧野富太郎、田代安定らと親しかった植物学者の日記『田代善太郎日記 大正篇』(創元社、昭和47年10月)に大正期地方のインテリ層と霊術との関わりを示す記述が幾つかあったので記録しておこう。
まず、田代の大正期までの経歴だが、

明治5年 福島県東白河郡生まれ
30年 東京高等師範学校卒
大正元年 長崎県立高等女学校首席教諭辞職、鹿児島県立加治木中学校嘱託
10年 加治木中学校辞職
14年 京大嘱託

日記を引用すると、

(大正7年2月)
24(略)小林氏よりは令室病気治療のこと、大[ママ]霊道、疾病治療のことをきく。

や、太霊道ですな。「小林氏」は不詳。

(大正9年9月)
12.日. 松田(略)氏の採集品を整理す。
藤田氏<呼吸法>の話を妻と共にきく。

「藤田氏<呼吸法>」の注に「松田英二氏が藤田氏から教わり健康になったという息心調和の呼吸法。実演と指導があった」とある。「松田英二氏」は注によると「現在メキシコ在住(略)メキシコの植物分類学の第1人者」。

(大正9年11月)
20(略)3時40分にて人吉に向って立つ。同行者生徒11名、窪田(隆、英語教師)氏、志々目氏、他に小学校教員2。
7時43分着。(新宮邸にて)夜、曽木子[ママ](隆輝、のちのドイツ大使館書記官、加治木町長、当時は中学生)の<催眠術実験>を見る。

善太郎の二男に当たる編者田代晃二による見出しは、「修養団員らと人吉へ」。また、()は編者による注である。蓮沼門三が始めた修養団と田代との関係は、大正12年1月23日の注に「植物研究とは直接のつながりはないが、教育者の家に生まれ教育者をめざした善太郎であり、また善太郎の紹介で修養団に入り幹事として活躍、のちに希望社を創始した(大正7年)後藤静香氏との縁もあって、善太郎は当然の義務のごとくこれら運動の普及に力を注いだ」とある。

(大正9年12月)
2(略)八代大将(六郎、第2次大隈内閣海相)、松元(稲穂・修養団)幹事を迎へ、日野、藤崎、内田と共に同車して鹿児島に赴く。<学校の修養団支部発会式に大将の臨席を請ふの件>成立。(略)
13.月. 前5時、倶楽部に集合。朝の行事<霊動>。黒川崎まで走り海水浴、精矛(くはしほこ)神社に至り美化作業。中学に至り国民体操。
9時より工業学校国民体操。(略)
16.木.晴。 朝5時より倶楽部にて土屋氏、霊動指導、我はかからず、晃二はよくかかる。のち国民体操。

霊動キター。「霊動」の注には「目をつぶり合掌静坐していると手が振動し、はげしい人は身体の振動にまで及び我を忘れて坐った姿であるいは立ちあがってはねた。これを感応と言っていたが、まったく感応しない人もあった」とある。また、「晃二はよくかかる」の注に本人である編者が「まわりの熱気におされてまねごとをしていた、ほんものではなかったという記憶がある」と書いている。
そして、息子が霊動に「よくかか」った日の翌日は、

(大正9年12月)
17.金.晴。 霊動をなし得たり。

12月4日に八代大将や修養団本部から来た松元の出席のもと修養団支部発会式が開かれた。修養団と霊動が組織として関係があったかは不明。大正12年2月18日の「鍛練会」の注には「修養団支部の鍛練会は早朝(5時のち5時半)に町の倶楽部に集って、黙想20分内外、「心の力」朗誦10分、国民体操10分、のちほうきをかついで神社などへ駈足し清掃奉仕して解散。正月には海岸まで駈足、夜光虫の光る海水で沐浴ということもあった」とある。「土屋氏」は霊術家ではなく、大正10年10月2日の注に「工業学校長」とあり、鹿児島県立工業学校長と思われる。