神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

柳田國男を訪問する国会図書館副館長中井正一

浅野晃「大和の旅」(『祖国』昭和25年9月号〜26年12月号)*1によると、

これも後日談になるが、大和の旅から帰つてのち、やはり東京で柳田國男先生をお訪ねした。先生のお宅へは、終戦の年の五月ごろ、折しも空襲のまつ只中にお伺ひしたのが最後であつた。七十五歳の高齢の先生は、意気ますます壮んであつた。いまごろ北海道などでのんきに遊んでゐるなどとは飛んでもない心得ちがひだと、いきなり叱られたのには、内心すくなからずおどろいた。
「ちかごろはどんな勉強をしてるかね」
仕方がない。僕は正直に答へた。
「詩を書いてゐます」
「なに、詩だつて」
「はい」
「いまどき吟歎を事とするなんて、困つたもんだね」
吟歎を事とする−−はひどいと思つたけれども、どうしやうもない。
「先生と逆です」
僕はさう云つた。さう云つた意味は、先生も若い時は詩人であつたではないか。詩を書いてゐられたではないか。まあさういつたわけでいくぶん攻撃的防御の戦法に出たのだが、いつかう手ごたへはなかつた。

当時柳田邸の書斎は民俗学研究所になっていて、大藤時彦堀一郎が近く出る『民俗学辞典』の編纂に多忙な様子であったが、やがて所員の大間知篤三もやって来たという。そして、中井正一も登場する。

そこでこんどは議会図書館の中井正一があらはれた。先生に何かたのみに来たらしかつた。蝶ネクタイなんぞしめて、中井君も見ちがへるほどの瀟洒たる紳士になつてゐる。もつとも三高以来ほとんど会つたことがなかつたのだから、おどろくほどのことでもない。中井はすぐ帰つていつた。帰りしなに一度図書館を見に来てくれと云つた。

浅野の大和旅行は昭和25年5月で、浅野が北海道の勇払から東京へ引っ越すのが同年7月なので、柳田邸の訪問はその間の出来事ということになる。この頃は、国会図書館副館長の中井が日本図書館協会理事長として尽力した図書館法が同年4月公布、7月31日施行という時期である。一段落付いたとはいえ、中井は多忙だった時期と思われるが、どういう用件で柳田を訪ねたのであろうか。

なお、「終戦の年の五月ごろ」柳田宅を訪問というのは、柳田の『炭焼日記』によると、昭和20年7月のことである。

昭和20年7月8日 水野成夫君も久しぶりに来る、浅野晃君同行、少年向きよみ物の話、賛成を求める。石鹸と北海道の干鱈をくれる。

*1:引用は、『浅野晃詩文集』による。