神保町系オタオタ日記

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『人體美論』の著者川崎安=鋳金家原安民(その2)

『人體美論』の著者川崎安(鋳金家原安民)だが、『子規全集』第二十二巻の「子規門歌人略伝」に立項されていた。

川崎安民(明治四〜昭和四) 
本名安。のち原氏をつぐ。鋳金家。子規の和歌革新に呼応し根岸庵歌会に殆んど欠かさず出席した。「日本美術」主宰。のち鴫立庵第十五世庵主となり、昔人と号して毎月運座を催し地方文化の開拓に尽した。短歌および俳句は追悼集『安民』(香取秀真・石島文太郎編)に収められている。 

また、年譜には、

明治32年11月20日 ⇒(書簡*1発信)川崎安民(「鹿の巻」の選歌催促)

  34年9月9日 安民より手づくりの蛙の置物を贈られる。

    9月10日 前日安民より贈られた蛙の置物の絵をかく。

漱石全集』第二十二巻にも川崎は登場する。明治38年11月27日付籾山仁三郎宛書簡に「拝啓子規の像本日着机の上に安置致し眺め居候(略)御蔭で故人と再会する様な気がします」とあり、紅野敏郎の注解に「川崎安の製作になる石膏製掛額「子規居士半身像」をさす」とある。

川崎の『人體美論』の「自序」に出てくる文科大学哲学科の三好雪皐(美学選考)と園田春耕(囚牛)だが、『東京帝国大学一覧 従明治三十六年至明治三十七年』によると、文科大学哲学科明治36年入学者の第一年として、「園田春耕 熊本」、「三好梧一 山口」の名がある*2。また、『東京帝国大学一覧 従明治三十九年至明治四十年』の明治39年7月哲学科(美学受験)の卒業生に三好梧一の名がある。これにより、三好梧一=三好雪皐と推測される。園田と三好は、川崎が発行していた『日本美術』の執筆者であり、『美術関係雑誌目次総覧 明治・大正・昭和戦前篇』中巻によれば、

園田春耕 「寧楽の都」 明治38年10月、11月号

三好梧一 「邦画と線」 明治39年9月号

     「建築美に就いて」 明治40年11月、12月号

     「神社建築と樹林」 明治42年2月号

     「都会の家と田舎の家」 明治44年9月号

三好雪皐 「上下と左右」 明治39年9月号

     「雪舟山水画」 明治40年7月号

     「雅邦翁年譜」 明治41年3月号

     「音楽と追懐」 明治41年6月号

     「人体美に就いて」 明治42年7月、8月号

     「日本山水美の二系統」 明治42年11月号

     「水に因める日本建築の術語」 明治43年1月号

     「風景としての東京郊外」 大正元年9月号

が確認できる。

(参考)「『人體美論』の著者川崎安=鋳金家原安民

*1:川崎の住所は、本郷区千駄木林町百七十七番地。

*2:のちの帝国図書館松本喜一の名もある。