神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

第一公論社副社長上村勝彌の出版人生

上林暁の「改造社時代」に、昭和2年4月改造社に入社し、佐藤績と共に山本實彦社長に秀英舎(のち大日本印刷)へ連れていかれた時の様子が書かれている。

秀英舎の「改造」校正室へ行つてみると、編集主任であごひげを伸してゐた上村清俊氏*1(改名勝彌、後「公論」編集長)を初めとして、栗林農夫(俳号一石路)、宮城久輝(筆名聡、「生活の誕生」の著者)、古木鐵太郎(改名鐵也、「子の死と別れた妻」の著者)、箕輪錬一(後日本ペンクラブ書記長)等のベテラン達が、校正の最中だつた。

この上村勝彌だが、兄の哲彌の方は大正8年東大政治学科卒で、昭和3年8月日本両親再教育協会(のち両親教育協会)創立、戦前は満鉄参与、第一公論社々長、戦後は日本女子大学等の教授なので、昭和53年3月28日に亡くなるまでの履歴が詳しくわかるが、弟の方は人名事典にも出てこない。唯一見つけた『現代出版文化人総覧昭和十八年版』の「現代執筆家一覧」によれば、

上村勝彌 カミムラカツヤ 明治29年生、住所:目黒区目黒2ノ372、出生:鹿児島、出身校:中大法学、現職:第一公論社主幹

勝彌は、改造社勤務後、第一公論社主幹になるまでは、先進社の社長や、新京印書館の代表をしていたようだ。朝鮮銀行京城総裁席調査課『満洲国の産業開発と新規事業計画』(昭和8年8月)の「株式会社新京印書館」によると、

東京の先進社長上村勝彌氏は主として満洲国の教科書出版事業の有望にして、且つ国家の事業なるに着眼し、昨年来同国の実情を調査し其の計画を進め満洲国側に折衝を重ね本年四月十日其筋の許可を受け(略)去る六月二十五日第一回払込(五十万円)を終了したとのことで、事業開始も余り遠くはないであらう。

という。新京印書館は、満洲国国定教科用図書其他図書の翻刻並販売などを目的とする日満合弁会社で、日本側発起人は、片山義勝、坪谷善四郎、秀英舎社長増田義一、寶文館社長大葉久吉、先進社々長上村勝彌らである。

先進社の勝彌は、斎藤茂吉の日記にも登場する。

昭和6年2月14日 午前午睡。先進社ノ上村勝彌氏来ル。(思想全集ノ名前ノコトナリ)

第一公論社の戦後だが、昭和21年2月26日付読売新聞によると、日本出版協会の粛清委員会が23日の評議会で「第一公論社=解散して出版業を廃止する(すでに同社は解散を申し出てゐるのでこれ以上追求しない)」と決定されたという。その後、勝彌は、「第一公論社副社長編輯長」を理由として公職追放。兄で同社の社長哲彌も当然公職追放のはずだが、なぜか該当者名簿に名はない。

(参考)「国際人藤澤親雄がトンデモに至る道」(7月10日

*1:先進社初期の発行人は「上村清敏」なので、「清俊」ではなく、「清敏」が正しいか。