神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

『写真週報』と財団法人日本写真公社

黒岩比佐子さんの「古書の森日記」に「『写真週報』(昭和16年新年号)」を初め何度も登場した『写真週報』。昭和13年2月内閣情報部(のち情報局)により創刊、同年7月対内外写真宣伝の官庁代行機関として写真協会が創立された。協会は、翌年4月財団法人化されている。更に、昭和19年5月16日付朝日新聞によると、

「日本写真公社」生まる
財団法人写真協会では情報局指導の下に機能陣容を整備し、その名称も「日本写真公社」と改め、新発足することになった、事業では南方向け写真原稿、写真紙型、展示用一畳敷写真の作成、??天然色写真等の研究、国内報道写真家の指導等がとりあげられてゐる、新役員は次の通り
会長松井春生、理事古野伊之助、星野辰男、横田巌、金指英一、稲葉熊野、松本昇、濱田健治、湯澤光行

『大衆人事録第十四版』(昭和17、18年)によると、
松井春生日本商工会議所理事、元資源局長官兼内閣東北局長
古野伊之助:同盟通信社社長、日本電通(株)取締
金指英一:東宝映画、第一興業各(株)取締
星野辰男:日本ニュース映画理事製作部長、筆名・保篠龍緒

松本昇も同人事録に「資生堂、日本石鹸化粧品合同輸出各(株)専務」とあるが、別人のような気がする。松本が『報道写真』昭和18年5月号に書いた「現地文化工作と写真」には、「前ジャワ派遣軍宣伝班員、写真協会常務理事」とある。
横田巌は『第十四版人事興信録』(昭和18年)によると、鉄道省国際観光局事業・庶務各課長を経て昭和17年鉄道調査部理事に任ぜられ退官。湯澤は『第十五版人事興信録』(昭和23年)によると、日本交通公社文化事業部事業課長。昭和6年早大政経学部を卒業し読売勤務、日本写真公社出版・弘報各部長、理事、常務理事を歴任。終戦と共に合併となり、日本交通公社へ入社。
また、アジア歴史資料センターの「情報局事務嘱託播磨楢吉外二十九名外二件」(昭和16年3月27日)に情報局事務嘱託として稲葉、濱田、松本の名前が見える。
稲葉については、「『書物と装釘』編輯兼発行者の稲葉熊野」(9月14日)参照。

(参考)「『写真週報』創刊号〜352号記事目録」で、同誌が見られる。
下記の本も出たようだ。

『写真週報』に見る戦時下の日本 (世界文化社)

『写真週報』に見る戦時下の日本 (世界文化社)