戦時中における高楠順次郎の動向が窺える記述が真崎甚三郎の日記にある。
昭和17年3月15日 松原政(ママ)遠十四時半に来訪、北海道の野口喜次郎氏、日本学研究所を設けんとする意あるにより同氏を引見すべく予に問ふ。予は之を諾す。
4月26日 松原致遠九時半に来訪、日本学会には高楠博士も参(ママ)同せられ追々財団法人を組織し予にも博士と共に顧問を乞ひしも予は一応之を断る。又出版統制の為に普通人の出版困難なり、此の方面の軍人に知人なきやと乞はれしも之もなき為断れり。
高楠順次郎と真崎は親しかったようで、真崎は高楠の葬儀にも参列しており、上記の「高楠博士」を高楠順次郎と見てよいだろう。
昭和20年7月18日 十四時に出で築地本願寺に至り高楠博士の葬儀に列す。厳粛に行はれしも空襲の為か会葬者少し*1。十七時半に帰宅す。
「日本学研究所」は、昭和16年8月に松原の『全人の道 日本精神の本質』を刊行した日本学研究所と同じ名称だが、それを日本学会という財団法人に改組しようということだろうか。高楠と松原の関係はよくわからないが、大正14年10月19日付読売新聞に、本派本願寺から欧米巡遊中の松原致遠が帰朝したので、日比谷松本楼で泉道雄、高楠、高島米峰、島地大等の発起で、歓迎会を開く旨の記事がある。
松原の経歴だが、筆名の松原至文で『日本近代文学大事典』に立項されている。
松原至文 まつばらしぶん 明治17.10.29〜昭20.9.10 宗教家、評論家。三重県生れ。本名致遠。明治43東京専門学校英文科卒。真宗大谷派の仏家の出で、在学中から「文庫」「新潮」「中央公論」などに文藝評論を発表し、『親鸞聖人現行録』(明治41.4内外出版協会)などの著書も刊行して文名高かったが、卒業後は仏門に専念して文壇を離れた。
松原の訃報は昭和20年9月13日付朝日新聞に載っているが、それによると、肩書きは前光明寺住職で、三重県員弁郡梅戸井村光明寺で10日死去。早大文科卒業後、欧州に留学、昭和7年大阪朝日嘱託。なお、松原については、「小野秀雄と三ケ島葭子の関係」(2007年3月13日)でも言及しているが、その時の猫猫先生のコメントに、松原について、「明治16年生れ、國學院大学卒の僧侶、文筆家」とある。生年の「明治16年」は17年の誤りと思われる。ネット上に出ている国学院大学国文科卒とか、角川源義との関係、相模女子大教授などの記述は誤りで、松原純一(編集者、近代文学研究家)の情報が混入したものである。
(参考)家森長治郎「三木露風と内海信之−書簡を通して見た友情の一齣−」にも松原が出てくる。