神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

秋田雨雀が見た「破船」事件前後の久米正雄

秋田雨雀の日記に、大正6・7年の破船事件前後の久米正雄が出ている。

大正6年2月25日 今日起きてまもなく稲岡の娘さんがきた。散歩に行く約束をしていたので、二人で少し話をしてから夏目さんの墓の方へ行く。今朝、ちよ子は妻といっしょに夏目の墓へ行ってきた。(略)墓地には夏目さんの奥さんが、久米君、松岡君と一緒に三番目の娘さん、二人の男の子といっしょにいた。どうもあんまり感じのいい人ではない。他人の感情を受入れないようなところがある。

  7年5月28日 上野山君にあったら、ぼくの作でまた思い出したといっていた。一昨日の時事に久米君のぼくの「少年の(ママ)死」の批評がでていた。おくってくれた。午後の一時ごろ、有楽座で国民座の舞台稽古をみた。(略)久米君のはやれなかった。帰路、久米君、菊池君、額田君といんごう屋で夕飯を食べた。夜二時まで国民座の批評を書いた。

「稲岡」は稲岡奴之助(2007年5月31日参照)。漱石の三番目の娘はエイ(15歳)、二人の男の子は、純一(11歳)、伸六(10歳)。「額田」は小谷野敦久米正雄伝』235頁に出てくる劇作家の額田六福。
久米正雄が書いた時事の批評というのは、「月評子」という匿名で時事新報に10回に渡り連載したもの。連載の最後に「最後に月評子が匿名で批評した事は赤木桁平氏あたりからお叱りを受けるかも知れぬが、是は敢て月評子自身の意志ではなく、編輯者S君の意志である事を公表して置く、僕は匿名でなければ悪口が云へぬ程の小心者ではない。文句があれば何時でも覆面は脱ぐであらう」と書いている。その後覆面を脱いだのかどうか知らないが、『近代文学研究叢書』の書誌で久米の作品とされているのは、この秋田の日記により久米が書いたものとしたのだろうか。

(参考)「破船事件前後の久米正雄」(2010年10月23日)、「大正6・7年の久米正雄と燕楽軒の時代」(6月9日

久米正雄伝―微苦笑の人

久米正雄伝―微苦笑の人

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1988年2月1日付朝日新聞朝刊

島為男氏(しま・ためお=教育評論家)
三十日午後八時半、急性心不全のため、東京都杉並区永福町二ノ一二ノ三の自宅で死去、九十七歳。喪主は妻都稚子(つちこ)さん。島広二・日大生産工学部教授、悦三・東大地震研教授、澄・武蔵大教授の父。