神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

里見とん『愛と智と』−事前検閲の顛末−

佐藤卓己言論統制』には、『新女苑』の主筆だった内山基による回想に基づいて、林芙美子「凍れる大地」への事前検閲について書かれている。この内山の回想には続きがあって、林の分が済んだ後、里見とんの連載「愛と智と」の四回目について、鈴木庫三から「このまま載せると後でえらいことになるよ、内務省に見せておいた方がいいぜ」と、忠告を受けている。

それは連載中の里見弓享さんの「愛と智と」という小説である。小説そのものは別に危いところのある作品ではないが、云われて見ると作中の主人公がたまたまその頃内大臣をしていた斎藤実の邸の近くに住んでおり、二・二六事件の叛乱で斎藤邸が襲われ、斎藤大将が惨殺され、叛乱軍が引きあげて行く経過を近所の人と一緒に見てしまうのであるが、その描写がかなりこまかく書かれているのである。二・二六事件が起ってからまだ三年とたっていない当時は、二・二六事件についての報道は一切タブーであった。まして近所の人々の眼で見た生々しい記録は、思想性は無いとしても、当局が許すはずはなかった。私は再びゲラ刷りを持って内務省の検閲課に行き、まだ仕事をしていた三人程の係官に事情を説明し、見てくれるように頼んだ。翌日返されたゲラ刷りを見ると、見るも無惨に赤字で切り取られているのである。総計八十二行、頁にして約四頁、全部で十二頁であるから三分の一は切り取られたわけである。もう今となっては里見さんのところに持っていって、手を加えてもらう時間はない。以下四十九行削除、以下九行削除と書いてのせる以外方法は無いのである。読者はなんのために削除されたかはわからない。又書くことも許されないのである。

これだけ苦労した「愛と智と」だが、昭和16年5月に単行本化された時に、6月4日付で「二一頁に不敬にわたる記述を掲げたるを以って削除」とされた。
削除命令を受けたのは、上記の部分ではなく、連載一回目の結婚について、「上は、一天萬乗の大君を始め奉り、下は匹夫下郎・・・どころぢやない、犬畜生に至るまで、まんべんなくやるこツた」と書いた部分であると思われる。