神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

岡本太郎がフランス時代に日本人とつきあわなかった理由

森茉莉『ドッキリチャンネル1』の「横尾忠則の個展のオープニングナイト、池田満寿夫の芸術と洋服、岡本太郎の画と彫刻と烏」(初出は『週刊新潮』昭和56年)に、

横尾忠則の会に、岡本太郎がいたので挨拶しようと近づくと、よくわからないようなので、(森茉莉でございます)と言ったがわからぬらしいので(巴里でお親しくしていただいていた森杏奴と類との姉でございます)と言ったが、全くわからぬらしいのでその儘傍を離れるよりほかなかった。こんな憶測をしてはいけないかもしれないのだが、岡本太郎はひょっとすると、彼自身の有名をかなり強く意識していて、自分以外の人間は、名をきいても思い出せない、といような、一種の有名人意識を持っているのではないだろうか。

とある。むしろ有名人意識を持っていたのは、茉莉の方だろう。鴎外の子供に会った人は何十年経っても忘れないと思っていたのだろう。太郎が杏奴や類と会ったのは、50年近くも前のことだ。覚えていなくても不思議はないだろう。

太郎と杏奴らの交流は、『鴎外の遺産2』所収の書簡で見ることができる。昭和7年3月18日付森杏奴の母しげ宛書簡*1には、

さて今日研究所にて岡本太郎氏に逢ふ。太郎氏のフランス語はまるでフランス人のやうに上手なので驚く。(略)太郎氏の話。
「−−僕、こつちへ来て二年ばかり遊んでゐた。芝居へ行つたり方々の西洋人の家へ行つたりしてた。そのおかげでこんなにフランス人のやうに話せるのだ。(略)僕、人の悪口つて云つた事ないのに皆は僕の悪口を云ふんです。勉強すると勉強してるつて悪口云ふし、遊べば遊ぶつて悪口を云ふので、もう日本人とは一人も交際はない事にしましたよ。(略)」(略)

とある。太郎がフランス時代、日本人とほとんどつきあわなかった理由は、こういうことだったのだ。

(参考)2011年3月1日

*1:このほか、4月3日付森杏奴の母しげ宛書簡には、「今日、泉二さんと三人でルーブルへゆき、絵葉書を買ひました。(略)帰りに『ドミニック』(ロシア料理)へ行つたら岡本太郎氏が来ました。子供の紳士みたいでをかしいです」とある。「泉二」は泉二勝磨。