黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』292頁には、西村陽吉について、『生活と芸術』発行所の東雲堂の若主人で『へちまの花』創刊の二ヵ月後に、同紙にならって小雑誌『青テーブル』を発刊している、と紹介されている。また、『日本近代文学大事典』では、大正7年『庶民詩歌』を発行したが、まもなく大杉栄らと合同して『民衆の芸術』と改題、民衆芸術論に熱中したとある。yukunoki-aさんが好きそうな人物である。『第十四版大衆人事録』(昭和17年10月)によると、
西村辰五郎 東雲堂(株)社長 学習社(株)専務 光明思想普及会*1 日本特殊新聞各(株)取締 出版業 本郷区駒込曙町一五 [閲歴]本府江原兼吉二男、明治25年4月9日本所区に生れ、西村憲(ママ)次郎の養子となる。陽吉と号し、歌人として知らる [家庭]妻園子(明治32)本府木田吉太郎長女 養嗣子光雄(明治45)養父長男慶大法科卒、東雲堂取締 同妻静子(大正5)本府式守蝸牛三女*2、精華高女卒
西村光雄・静子夫妻には、昭和18年1月長女西村亜希子が誕生。光雄は、戦後内外出版社の代表となり、昭和40年1月亜希子はあるプロ野球選手と結婚することとなる。その夫は、選手引退に際し、次の言葉を残した。
「わが巨人軍は永久に不滅です」
黒岩さんが生きている間に、驚かせたかった・・・
(参考)上記の発見は、亜希子の結婚披露宴に出席したある書店の創業者が「ぼくがこの会に招かれた理由は、新婦の亜希子さんとの縁であった。詳しくいえば、その亜希子さんのお父さん、西村光雄さんとの交友からであった。西村君は、三省堂に関係深かった西村辰五郎氏の令息で、三田をぼくより五、六年あとで卒業している」と書いているのを読んだためである。