神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

池島信平が無産知識階級のクラブと呼んだ新宿「ととや」

東大独文の教授相良守峯の自伝『茫々わが歳月』(郁文堂、昭和53年5月)は、「はしがき」に「本書はだいたい日記やメモ帳の抜粋である」とあり、詳細な記述のある日記を読んでいる感がある。

昭和二十九年
十二月八日夜、登張君と新宿の「ととや」に行ったら、文芸春秋池島信平、評論家の臼井吉見両君と会って共に飲み、私の「ファウスト」訳を信平さんに送る約束をする。この「ととや」という酒亭は、中村屋ビルの四階と五階にホテルを営んでいる東大美学出身の人の経営によるもので、中村屋の裏手にある。大学の教師やジャーナリストなど知識階級のクラブの観を呈し、信平さんはこの店を、無産知識階級のクラブと呼んだ。織田作之助の未亡人がこの店の雇われマダムであり、その後を継いで、私たちが「ドレースデン」などで知り合っていた安藤利加さんがマダムとなり、この利加さんが後に独立して「利佳」を開店してからは、ここがわれわれの寄り場となっている。「ととやホテル」の方には、仏文の白井浩司さんと二人で泊ったこともある。

「登張」は登張正実。「利加」は「利佳」の誤りとも思われるが、同書では店名は「利佳」、マダム名は「利加」で一貫している。塩澤実信『文藝春秋編集長 菊池寛の心を生きた池島信平*1によると、『週刊朝日』の扇谷正造とよく飲んでいた池島は、銀座のバーで軽くいっぱいやった後、「ととや」へ行くのがお決まりだったという。また、「「ととや」は、気風のいい美人ママがいて、ひところ、作家、評論家、雑誌記者たちのたまり場みたいになっていた」という。同書には、昭和32年6月18日東京ステーションホテルで開催された池島の雑誌記者生活二十五周年を励ます会の芳名録が載っているが、そこには「安藤りか」とある。

また、前掲書によると、昭和31年9月10日には、「ととや」で亀井勝一郎、古田一枝(松原一枝)、宇佐美和子(週刊サンケイ記者)と会っている。
ところで、上記の「中村屋」とはあの中村屋だろうか。そして、「東大美学出身の人」とは誰だろう。

(参考)「利佳」は、昭和34年10月開店、平成20年9月閉店のようだ→「http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/046aaeac34f229134fd5bbcf96954d96」。なお、相良の書によると、昭和39年11月9日紀伊国屋四階ホールにおいて、池島の司会で「利佳」開店五周年記念の会が開催され、49年11月22日には相良が「名誉理事長」、田辺が「名誉同窓会長」で案内状が出され、東郷記念館において、医博金子嗣郎の司会で「利佳大学同窓会」と称するパーティが開催された。

*1:追記:同書のあとがきによれば、『雑誌記者 池島信平』を改題、加筆削除したもので、戦後ロマンス社を創業する熊谷寛に送った挨拶状と、励ます会の芳名録を加えた。