神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ボースと親しかった秦学文の経歴

篁白陽を満川亀太郎に紹介した秦学文*1の略歴が判明した。

『近代朝鮮文学日本語作品集(1901〜1938)評論・随筆篇3』によると、

秦学文(チン・ハンムン) 一八九四−一九七四。ソウル生まれ。作家、ジャーナリスト、実業家。号は瞬星。一九〇八年、東京慶応義塾普通部普通部入学。翌〇九年、普成中学に転学。卒業後、一三年、早稲田大学英文科入学、中退後、一六年、東京外国語学校ロシア科に入学。一八年に大阪朝日新聞社に入社、二〇年、『東亜日報』創刊時、論説委員政経部長に就任。雑誌『東明』主幹などを務め、二四年、崔南善とともに『時代日報』を創刊し編集局長に就くが、二五年、経営難から譲渡。二七年、家族とともにブラジルに移住、二八年、娘「奇」を亡くし、四月、朝鮮に帰る。三六年、満州国国務院参事官として就任。(略)解放後は、経済人として活動した。

一方、中島岳志氏は、鈴木邦男氏との対談*2で、秦について、ボースと親しかったことを紹介した上で、

 秦学文も同じような境遇の人で。彼は18歳のころ日本に渡ってきて早稲田の文学部を出て新聞記者をやっていたのですが、それに飽き足らず一発当ててやろうとおもってブラジルに渡るんです。しかしそこでスッテンテンになって朝鮮半島に帰る。そのときに満州を旅行するんですね。「満州事変」の前ですけど、中国東北部でいかに同胞がひどい扱いをされているのか、というのに心を痛めるんです。こりゃなんとかしないといけない。と思っていた矢先に「満州事変」が起き、秦は日本に再び渡ります。そして日本の懐にはいって、満州で出世することによって同胞たちにパイを配っていこうと、そう考えたんです。後に秦学文はまんまとそれに成功して満州の生活必需品株式会社の重要ポストに就くんですが。

と発言している。中島氏が言う経歴と前記略歴は、おおむね一致するが、
早大を中退したか、卒業したか。
満州で、国務院参事官だったか、生活必需品株式会社の社員だったか。
で食い違いがある。前者については、『早稲田大学校友会会員名簿』には載っていないので、中退の方が正しそうである。後者は、どちらも正しいのかもしれない*3

秦自身も、ボースと親しかったことを相馬黒光・相馬安雄『アジアのめざめ 印度志士ビハリ・ボースと日本のめざめ』(東西文明社、昭和28年2月)の「ボースさん」で、

ボースさんと私との交際は、ボースさんの結婚披露の日から、亡くなられる迄だから、随分長くもあり、又深いものであった。

と書いている。また、渋沢青花『朝鮮民話集』(現代教養文庫、1980年8月)の「前がき」には、

わたしは大正の末期、東洋童話叢書の刊行を企画して、まず「支那童話三十篇」、「チベット童話二十篇」、「台湾童話五十篇」を出した。続いて朝鮮の童話即ち民話を出すため、台湾旅行の帰途朝鮮へ廻った。それについて黒光さんが、朝鮮へ行かれるなら秦学文を訪ねて、いろいろの便宜を得るようになさいと注意してくださった。秦学文氏は相馬家の世話を受けて日本に居り、わたしもしばしば逢って相知の仲で、この時は京城に帰って、新聞社に勤務していた。(略)黒光さんも、秦学文氏も石井漠氏も今は世を去っていない。

という記述があった。

ところで、篁と秦はどこで知り合ったのか、気になるところである。

*1:2月15日参照。

*2:http://www.magazine9.jp/taidan/007/index1.php

*3:追記:『満洲国現勢 慶徳八年(昭和十六年)版』によれば、秦は国務院総務庁法制処参事官。