尾関岩二「船川未乾君の装幀」*1によると、
伊藤長蔵氏がぐろりや(ママ)そさえてを初(ママ)めた時に、船川君は伊藤熊三氏の紀行文を装幀した。そして小田秀人君の長詩「本能の聲」をもまたこゝから装幀して居る。
小田君の詩集は四六版背フラツト、紙装だが、黄の厚紙に空押で、幾何学的の模様を現はし、背に黒く著者名を現はしてある。見返しに黒を用つた点なども今までのものとは調子がかはつてゐる。
小田君は既に三冊の詩集を持つて居り京都大学を退学したり、軍人になつたりして、ニーチエを勉強して居つた。「この詩集をわたしの貧しき自由画として、その空隙には私の満身の血液を籠めて秘かに−−無二の畏友船川未乾氏に捧ぐ」とデデイケーシヨンを書いて居る小田君の熱意が船川君をしてこの装幀をなさしめたのである。船川君は本書の扉絵のために何度もエツチングを試みたが遂に成功を見なかつた。
船川は、『美術家人名事典』(日外アソシエーツ)によると、
船川未乾(ふなかわ・みかん)1886−1930 明治19年京都生。本名は貞之助。大正3年渡仏。アンドレ・ロートに師事。帰国後は個展を中心に活動。昭和5年4月9日没。享年44歳。
小田は大正7年京大哲学科入学。同期の谷川徹三は11年3月に卒業。小田は、同年に卒業しておらず、12年1月発行の『京都帝国大学一覧』では在校生ではなくなっている。確かに退学しているようだ。ただし、小田自身が昭和3年に学士になったと言っており、卒業生名簿でも昭和3年3月卒業になっている。退学しても、後に卒業資格を得たのだろうか。ちなみに、同年の同科卒業生にはスメラ学塾の小島威彦もいるが、交流は無かっただろう。ところで、小田と船川は、いつどのようにして知り合ったのだろうか。尾関によると、船川は大正7、8年頃南禅寺北ノ坊町に住み、第1回の個展(時期不明)は京都帝国大学楽友会館で開かれたという。また、大正11年3月12日付東京朝日新聞によると、近く渡欧する船川の既往三年間の作品を集めた展覧会が、同月11、12日に京都商業会議所で開催されたという。これらの個展を見て、知り合ったのだろうか。
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INAXギャラリーの「幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷展」は明日までだ。