神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

管野すがらの遺体を引き取った堺利彦ら

小谷野敦氏が、ブログで、

黒岩さんは、処刑されたあとの管野スガの遺体を、堺利彦がひきとったと、さらりと書いている。しかし、引き取ったのは荒畑寒村安成貞雄で、このことは『寒村自伝』に詳しく書いてある。『寒村自伝』を見ていないはずはないし、堺が引き取ったという典拠も分からない。

と書いている。この点について、考察してみる。まず、黒岩さんの『パンとペン』における該当部分の原文は、

二十六日の夕方にも、堺は残りの棺を引き取るため、大杉らと一緒にふたたび東京監獄へ向かう。典獄と相談した結果、遺族から連絡がなく、どう処置すればいいかわからない遺体は監獄内に置いたままにして、管野すがら四人の棺を引き取った。

である。この直接の典拠は不明だが、神崎清『革命伝説4』にこれに近い記述がある。

大逆事件の死刑囚十二名のうち、のこり六名の死体については、翌一月二十六日の午後四時ごろ、堺枯川・同為子夫人・増田謹三郎らが、東京監獄の木名瀬典獄と相談した結果、まだ家族から連絡のない宮下太吉・新村忠雄の死体は、そのまま監獄内にとめおき、松尾卯一太・成石平四郎・新美卯一郎・管野幽月の死体をひきとる、ということで合意が成立した。

更に同書で管野ら四人の遺体の引取り名義人を個別にみると、松尾は堀川冬子(実際は堺利彦)、成石・新美は為子夫人、管野は千駄ヶ谷の増田謹三郎である。これをまとめて、黒岩さんは、堺が管野ら四人の棺を引き取ったとしたわけである。確かに正確な記述ではない。これは、一つの解釈である。もう一つ別の解釈ができる。引用した原文の二つ目の文章に主語はないが、今までの考察は明示されていない主語を堺と解したものである。大杉らを含めた*1堺らを明示されていない主語と見れば、堺らが管野らの遺体を引き取ったということで、誤りとは言えないということになる。そもそも、黒岩さんが管野の遺体の引取り人が増田だったことを忘れていたとは思えないので、後者の読み方をすべきなのだろう。

なお、小谷野氏が荒畑寒村云々と書いているのは勘違いと思われ、『寒村自伝』には「房州から上京した私は安成とともに、かつて間借りをしていた縁故で管野の遺骸を引取った千駄ヶ谷の某家をおとずれた」とある。

*1:大杉は遺体の引取り名義人ではないが、監獄から引き取る際にその場にいた。