神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

性科学者澤田順次郎の弟、澤田俊治という名の奇人

『吉田巌日記第九』によると、ある朝、吉田が教員を務める帯広の伏古第二尋常小学校に、指の皆ぬけ出た足袋に草鞋をはいた、年の頃22、3位のみすぼらしき工夫体の男が現れた。「東京赤坂区青山南町五−九七 化石採集及研究旅行者 澤田俊治」と名乗る「無銭旅行者」だったが、話を聞くと只者ではなかった。

大正6年6月25日 (略)化石地質学の素養十分なるには敬服。知名の澤田順次郎氏は氏の令兄なりと。放課后ゆっくりとその研究の来歴等を聞くに九州、四国、近畿、関東、北越、奥羽、本道まで殆全国を実地踏査した。(略)田辺町なる南方熊楠氏を訪問せしに不在にて、その奥さんが裁縫一手にて悲惨なる生活をしてをられること、氏は例の大酒家で訪問の当時はビール箱に本がつまって雑然としてあったこと、以て南方氏の一轍が察せられる。本箱すらなき生活とはいたみ入ると。又澤田氏の郷里、盛岡と県を同うするかの伊能嘉矩(カノリ)氏は親孝行を以て聞ゆと。故坪井博士の後進を引たてることの親切到れる。また同情のあつき、即ち氏の令兄順次郎氏の性慾研究における今日の位置なども、要するにその指導の賜であったと氏は漏した。

何と、盛岡生まれの性科学者澤田順次郎の弟だったのだ。順次郎と坪井正五郎の関係については、順次郎と大鳥居弃三の共著『男女之研究』(光風館書店、明治37年6月)の大鳥居の「序言」に「本書編述に関し、理学博士坪井正五郎先生に負ふ所の恩誼は、予も、澤田氏も、共に浅からず」と書かれていて、俊治の話と合致する。また、日記の翌日の条では、俊治は朝鮮の小学校で教育に従事していたと語っていたという。

別所文吉「わが日本構造論 群島の基盤の槽曲について3」(http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1974/12/74_12_02.pdf*1に、盛岡中学の出身で、朝鮮で教員をしていたが、内地に帰り大正元年から放浪生活を始めたという「沢田俊治」という人物が出てくる。一生独身で過ごしたともある。この沢田と吉田巌日記に出てくる自称澤田順次郎の弟は、同一人物と思われる。ただ、別所の記述では、地質学者江原真伍(明治17年生)の10歳年長というから、吉田と会った大正6年当時は数えで44歳だったはずだが、吉田には22、3歳に見えたというのはどういうことだろう。ググると沢田は昭和27年度には高知県文化賞を受けているようなので、調べればもう少し詳しい経歴がわかるかもしれない。

奇人好きだった黒岩比佐子さん、こんな人を見つけましたよ・・・

*1:『地質ニュース』244号、1974年