永井荷風は、昭和34年4月30日没。晩年の荷風宅をしばしば訪れたのは小林修という青年であった。また、遺体の第一発見者は福田とよという通いのお手伝いであった。前者の小林については、川本三郎氏が2004年7月4日付日経新聞の「晩年の荷風と小林青年」*1で、その経歴を明らかにしたところである。更に、川本氏は『図書』11月号の「荷風家のお手伝い 福田とよ」で、後者の経歴についても解明している。
川本氏によると、福田は明治17年生まれ、静岡の出身。二度結婚歴がある。半藤一利『荷風さんの戦後』には「文字が読めない」とあるが、実際は実家は裕福で、教養のある女性だったという。荷風の遺体を発見したときは、腰を抜かし、ただ驚き、人に知らせなければと近くにある鍋や釜を叩いて人を呼んだという。その後、荷風と同じ年に亡くなったという。川本氏は、「荷風の死は、これまで老人の孤独死と寂しく語られることが多いが、福田とよや小林修のような無名の庶民に見守られていて幸せではなかったか」としている。
なお、小林については、わしは過去次のようなことを書いていたようだ。
2005年8月23日
荷風については、江戸東京博物館の荷風展とか、昨年3月の市川市文化会館での荷風展に行ったくらいで、作品そのものはまともに読んでいない(随筆を幾つか積ん読してる)。
荷風終焉の地、市川市であった荷風展では、荷風の居住した小西家の縁側が復元されていて、自由に座れるようになっていた。僕も座ってみたら、その瞬間だけは、風流人になれたような気がした(永井永光『父荷風』164頁に写真が載っている縁側)。
同展で「消息をご存知の方、ご一報を」と呼びかけていた、荷風と親密な関係にあったという小林修の消息は、その後、日経の平成16年7月4日付朝刊に川本三郎氏が報告している(文化欄「晩年の荷風と小林青年」)。本名、吉田修。大正8年押上生まれ、昭和59年死亡。
生涯独身であったという。
昭和23年から荷風のなくなる昭和34年まで交流が続き、おそらく荷風が生前に会った最後の人間であろうという*2。もっと、どういう人間だったか知りたいものである。
P.S. 荷風について、たまたま手元にある本の一節。
・荷風と星一(星新一の父)がアメリカで出会って、会話をかわしている可能性が高いこと(横田順彌『雑本展覧会』)
・大島隆一(成島柳北の外孫)が荷風の知遇を得たのは、偏奇館に程近い南葵文庫の司書をつとめていた高木文の仲介によるもので、大島が最初に偏奇館の主と対面したのは大正15年7月14日(前田愛『成島柳北』)
・さいたま文学館に永井荷風コレクションを寄贈した山田朝一(古書店主)は、民俗学者宮本常一の小学校の同級生(反町茂雄編『紙魚の昔がたり昭和篇』)
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