神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

田端の天然自笑軒と俳人岡野知十の深い関係

天然自笑軒の創業者宮崎直次郎の孫小林素次氏によると、天然自笑軒は宮本百合子佐多稲子、吉田絃二郎、室生犀星内田百輭久保田万太郎小島政二郎らの著述に出てくるという。このうち久保田の著述とは、「「引札」のはなし」*1と思われる。

なほ『鴎外遺珠と思ひ出』の編集後記に、
「天然自笑軒は俳人岡野知十氏が田端に創められたもの」
としてあるが、わたくしの聞いた限りでは、このうち、もと兜町で商売をしてゐた宮崎さんといふ人が「輭居のつれづれ洒落半分に思ひ立」つてはじめたうちとなつてゐる。・・・同じ兜町にゆかりのあつた知十さんでもが口をきいて、森先生、これをその宮崎さんといふ人に書いてお与へになつたのが、後にさう誤り伝へられたのであるまいか?・・・

『鴎外遺珠と思ひ出』の「編集後記」は森鴎外の弟潤三郎が書いているので、岡野が創業者というのは間違いではあるが、全く根拠のない話とは思えない。まず。鴎外の日記を見ると、明治34年9月2日の条には「岡野知十初刊の半面一冊を寄す」とある。『半面』は、岡野が同年8月に創刊した俳誌。また、岡野の句集『鶯日 乾』*2によると、

  自笑軒開業
七草や幾くさ揃へ茶懐石

  天然自笑軒御昼食茶料理引札に
江戸に見し辻行燈や子規

とある。岡野は、自笑軒の開業に立ち会った上、時期は不明だが、鴎外同様引札にも書いていたこと*3がわかる。また、岡野は鴎外の死に際し、

鴎外博士逝く。しがらみ、俳趣画趣、半面に対して博士と多少の縁ありて博士のはがき両三片ありしが面を対して見し事はなし

と書いている。面識はなかったということなので、久保田の推定する岡野の口利きは無理かもしれない。

以上の資料によると、岡野と自笑軒との深い関わりから、潤三郎が岡野を自笑軒の創業者と記憶違いしたと思われる。なお、久保田が岡野を「兜町にゆかりのあつた」と言っているのは、岡野が明治38年義兄藤田英次郎経営の茅場町株式仲買店今井商店に入った関係を指すと思われる。

岡野と自笑軒の関わりを示す資料としては、明治42年11月8日付経済新聞に岡野が書いた「田端の茶寮(兜町の茶人宮崎氏の隠宅)」もある。この記事によると、岡野は5月に「天然自笑軒」に招かれたという。茶席用広間、居間、台所、土蔵等の建坪が約百二十坪で、敷地は四百坪。地を相して、樹木を移し、建築の設計から落成まで三年間すべて宮崎自身で指図をしたという。この記事では、一般人向けに営業をしていたかは不明だが、明治42年の時点で「天然自笑軒」という茶寮が存在していたことは確認できた。

さて、ここから先が私の「妄想」で、『秘密辞典』の著者自笑軒主人の正体を探ることとなる。

*1:昭和13年11月執筆、発表誌未詳。『久保田万太郎全集第十一巻』所収。

*2:岡野馨発行、昭和9年8月。岡野二郎発行、平成3年8月により復刻。

*3:8月16日参照。