神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

科学知識普及協会の枝元長夫

だんだん枝元枝風(本名・長夫)の専門家になってきた。そんなものになってどうするのという気もするが、またまた枝元情報を発見した。戦後、日本宇宙旅行協会の理事長となった原田三夫の自伝『思い出の七十年』に出てくる。

たまたま鎌倉から東京に通う仲間の一人、東京日日新聞の学芸記者枝元長夫が、私の著書を見て、子供向きの原稿を書いてくれといったが、それがそのころ発足した科学知識普及協会の同人だった。
科学知識普及協会とは、銀座にあった化学工業新聞社の社長が(略)企画したものである。その社長というのは現在、東京の渋谷を本拠として、全国に確固たる販売網を張り、国際情報、大法輪などの出版をやっている、国際情報社の社長石原俊明である。
(略)
ところが科学知識普及協会に内紛が起った。機関誌「科学知識」は枝元が編集長になり、創刊号の原稿を集めて、雑誌の体裁内容見本を作ったが、石原が市内の雑誌大取次店主を招き、それを見せて、よろしくと頼んだところ、かれらは口を揃えて、こんなものは売れないから止めたほうがよいといった。発行日の[大正十年]七月一日は迫っていた。石原は青くなって、浜田病院にいた私に電話をかけ私に編集をしてくれといった。(略)
枝元は面目を失ったが、それまでに一つの問題で石原と反目していた。枝元はもともと、当時の「婦人画報」を発行していた、いまとは別の東京社と深い関係があった。枝元が私に頼んだのも、その原稿であった。かれは会の機関誌「科学知識」を東京社で発行させようとしたが、石原は会でやるべきだと反対した。もともと枝元は東京日日の連載学芸記事を執筆し、学者に顔が売れ信用もされていて、協会はその顔で多くの科学者の援助を得ることになったのだから、自分の主張を石原が応ずると思っていたかれは、不平たらたらであった。加うるに自分の編集をボロクソにいわれたので枝元は怒って脱退した。

枝元は、脱退後、石原に不正事件があるといいふらし、理事達は創立者の石原を協会から追放。原田も石原と行動をともにしたという。原田の側の一方的な言い分ではあるが、枝元の人間性をうかがわせるエピソードである。

(参考)5月7日

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