神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

内閣情報部情報官柴野為亥知

柴野拓美の父親と思われる柴野為亥知。拓美は金沢生というので、父親も石川県人と見て、『石川県大百科事典』(北國新聞社、平成5年8月)を引くと、出てました*1

柴野為亥知 しばのためいち 1896〜1959 旧陸軍軍人、内閣情報部主任。金沢市小立野の加賀藩士の家に生まれる。陸軍幼年学校、士官学校卒。金沢の歩兵7連隊を経て松井大将副官(少佐)、のち中佐となり陸軍省報道[ママ]部兼内閣情報部主任情報官。以降の4年間、中央省庁で黒田中尉*2(金沢出身)を片腕とし情報活動に手腕を発揮した。李香蘭(のちの参院議員山口淑子)を売り出し、友好親善映画「白蘭の歌」「支那の夜」などの映画を企画、東宝に製作させ爆発的人気を博した。作詞作曲などの才能を持ち、「遂げよ聖戦」「大建設の歌」「徐州攻略の歌」「従軍記者行進曲」「大陸の花嫁」など30余曲を発表。東海林太郎、上原敬伊藤久男らの熱唱でレコードも発売、一世を風靡した。昭和18年(1943)第69連隊長、トラック島守備隊長。戦局悪化に伴い部下将兵の生命保全に努め、荒野や荒れ地を開墾して芋、野菜を作り、ほとんど全員無事帰還させた。(受川策太郎)

『職員録』で確認すると、昭和13年7月1日現在では、歩兵少佐として陸軍省軍務局附。14年1月20日及び7月1日現在は歩兵中佐で内閣情報部情報官、陸軍省軍務局附。15年2月1日現在では内閣情報部・陸軍省軍務局に記載なし。主任だったかはともかく内閣情報部情報官だったことは確認できた。なお、14年1月及び7月現在の軍務局附の中には、鈴木庫三の名前も見える。佐藤先生が『言論統制』で活用した鈴木日記に、柴野の名前は出てくるだろうか。

為亥知が書いた文章*3によると、昭和10年10月関東軍に赴任。新聞班に所属し、満映創立に関与。13年3月の異動で東京へ転任し、相変わらず映画政策に関与したとある。同事典が「李香蘭を売り出し」たとする根拠は不明で、山口淑子の自伝には「私を満映にスカウトした東宝の山梨稔総務部長が新理事長(甘粕正彦のこと−−引用者注)の逆鱗にふれて辞めさせられた*4と聞いて驚いた」と、山梨の名前は出てくるが、柴野は出てこない。

(参考)6月4日

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呉智英『言葉の煎じ薬』(双葉社)が出てた。
言葉の煎じ薬

*1:中山忠直も金沢市生まれ。生年も1895年と近い。中山が「詩人中佐 柴野為亥知」に贈った献呈入り『地球を弔ふ』(書物展望社昭和13年)を、牧眞司氏は所蔵しているという。「http://www.din.or.jp/~smaki/smaki/SF_F/rireki/repo0801~12.html」参照。kokada_jnet氏の教示による。

*2:黒田千吉郎か。

*3:満映創立一週年を迎へて感あり」『満洲映画』2巻9号、康徳5年10月。

*4:山口猛『哀愁の満州映画』によると、「山梨は満映設立時には業務部長、翌十三年(康徳五年)七月十五日には理事長室企画室主事、参事、八月二十日には総務部長兼北京出張所所長と、初期の満映で権勢を誇っていた。しかし甘粕が理事長に就任して一月後の十二月二十一日には、華北電影公司発起人の立場に置かれ、翌年の機構改革では参与の地位を与えられたものの、組織の中枢からは離れた。実質的な仕事はないまま華北電影に赴任することもなく、山梨は昭和十五年(康徳七年)九月に満州を去り、東宝企画室参事に就任した」という。