神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

広瀬正と龍円正憲の出会い

珍しい資料ではないが、ネット上には出てないようなので記録しておこう。
広瀬正と長年親交があった加納一朗*1の話として、山村正夫『推理文壇戦後史4』の「多才な異色SF作家・広瀬正」にある一節*2

出世作「マイナス・ゼロ」も、昭和四十年から『宇宙塵』に連載した作品に手を加えて、七百枚の大長編として完成させたものだった。広瀬氏は作家の片岡義男、翻訳家の小鷹信光、漫画家の水野良太郎などの諸氏と“パロディ・ギャング”というグループを作っていて、そのグループとあの頃河出書房にいた龍円正憲氏(現集英社勤務)が接触があり、それが機縁で同社から出版の運びになったものだという。(略)だが、私自身(山村正夫−−引用者注)にとっての広瀬氏の思い出は、もっと別な面にあった。氏がまだ作家として脚光を浴びない以前、プラモデルのクラシック・カーの製作に従事していた頃の話だが、広瀬氏は推理作家協会主催の余興係としては、なくてはならない存在だったのである。

パロディ・ギャング編集の本としては、『これがホントのパズルでござる 頭のワルくなる本』(コダマプレス、昭和41年11月)があり、「この本を書いた四人の男たち」として、広瀬のほか、片岡義男小鷹信光水野良太郎の名前があがっている。広瀬の肩書きが、ふざけていて、「かつどん同好会会長*3、ミス練馬大根審査員、禁酒連盟実賤[ママ]部長(禁酒実賤四百有余回)、名刺廃止運動評議会書記」とある。また、水野良太郎「パロギャンのガラクタ入れ」『宇宙塵』163号(昭和47年4月)の「広瀬正追悼特集」によると、「広瀬正は、パロディ・ギャングのオリジナルメンバーの一人だった。伊藤典夫豊田有恒それにボクを加えて、広瀬正は当時わせだ書房から出ていた男性向月刊誌「FIVE 6 SEVEN」*4のカラー・セクションの仕事をやっていて、グループ名をつけることになり、井の頭線の車内でみんなと相談、パロディー・ギャングのネーミングが決ったのだった。/その後、伊藤、豊田の二人がいつの間にやら抜けてしまい、あとからテディ・片岡、小鷹信光、しとう・きねおの三人を仲間に加えて“商売”を始めた」。

(参考)4月21日

豊田有恒「広瀬さんの和魂よ安かれ!」『宇宙塵』163号に

晩年−つまり最近数年の広瀬さんは、SF作家と呼ばれることを拒否しておられたようだ。その態度の底には、広瀬さんのSFに対する愛憎二筋道がうかがえる。(略)
うちあけていえば、ぼくたちの仲間のごく一部に、広瀬さんとうちとけない少数グループがいたことは確かだ。その人たちは、広瀬さんが書かれた長編が、ことごとく直木賞の候補になったことに、やっかみの感情をいだいていたにちがいない。そうしたねたみやそねみを正当化するため、広瀬さんのSF嫌いを理由に、われわれの仲間として迎えいれようとしなかったのだろう。おそらくその人たちは、今となって寝覚めのわるい思いをしているにちがいない。

とある。

                                    • -

いつのまにか黒岩さんは黒のスーツだったという記憶になっていたが、「daily-sumus」の写真を見ると、違っていた。あれから、もう4年も経っているんだ。

*1:宇宙塵』163号の「広瀬さんさようなら」で、「私たちは毎週のように会い、おなじ興味を持っていた昭和史に関する本を、ほとんど都内全域の古書店、古書展をまわって集めていた」と書いている。

*2:広瀬と龍円の出会いについて、より詳しくは、龍円の「広瀬正の“ライズ・アンド・フォール”」『噂』1972年6月号にある。

*3:かつどんが好きだったようで、パロディ・ギャング編『アッ!これは傑作 世界のグッド・アイデア』明文社、1969年12月の145頁に「カツドン愛好者組合顧問のヒロセ氏のカツドン迷路」が出てくる。

*4:NDL-OPACによると、昭和38年1月創刊、同年6月1巻5号で廃刊。