神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

女でしくじったもう一人の早稲田大学図書館員

毛利宮彦という早稲田大学図書館の職員が図書館を追われたことについては、畏友の書物蔵氏が、書いてくれている*1が、女でしくじった早稲田大学図書館員がもう一人いた。

戦前、早稲田大学図書館主事で、日本図書館協会評議員兼理事を務めた小林堅三という人がいた。昭和16年1月21日逝去し、『図書館雑誌』35年2号(昭和16年2月)に訃報が載っている。それには「逸事」として、「市島館長時代に○○といふ、分類等の技術には秀れてゐたが極めて奔放不羈な人がゐて、小林氏に大分手を焼かせたらしい。けれども小林氏は遂に紛争を醸す等のことなく、巧く館長を扶けて事務を処理してきたのであつた」とある。最初、これは、毛利のことかと思ってしまったが、どうやら別の人のことだったようである。

図書館雑誌』35年4号(昭和16年4月)の「図書人を偲ぶ座談会(二)」にそれらしい人が出てきた。

市島(春城) 自分の早大の図書館長となつた頃は、ラ[イ]ブラリーのテクニックなど充分心得なかつた、唯だ自分の館員で分類法などの心得のあつたのは加藤萬作であつた、加藤は相当頭の良い男で撫箏(こと)がその本職で名取りであつたやうです。それが妙な問題を起しましたよ。詰り女の問題ですが、奴の困つたのはその問題です。相当の妻君を持ちながら、何処かから預かつた女と関係して、その女がどうしても離れないので、そこで止むを得ず成田へ駆け込んで済はれたといふロマンスがあります。
今澤(慈海) 子供たちは成田にをりますよ。
市島 あのやうな人を援けて下さつた成田は有難いですよ。石川さんは図書館協会の人を一人は必ず救済するといふことを云つてゐましたが。
今澤 文屋留太郎君も成田へ行きましたよ。(略)

私は、「仕事ができれば、女の一人や二人」と思う方だが、図書館員という「聖職」(?)ではそうもいかないようである。
それはさておき、この座談会によると、加藤は、石川照勤館長の成田図書館に引き取ってもらったように読める。『成田図書館八十年誌』には、加藤は、石川館長の要請により職員となり、文屋留太郎(大正6年1月没)の後任となったとある。大正6年というと、毛利が諭旨免職に近い状態で早稲田大学図書館を追われた年で、市島館長も大変だっただろうなあと思ってしまった。ただ、市島の日記には、

大正元年9月9日 加藤万作、一身上の事故より図書館辞任の事を申出づ。

    9月22日 高橋文治、図書館之件ニ付来訪。来月より加藤万作の後任と為す件ニ付懇示し遷へす。

とあり、加藤の退職時期は、大正元年だったかもしれない。おそらく女性問題で早稲田大学図書館を辞めた加藤は、成田図書館大正8年6月まで勤めた後は、東京帝国大学法学部図書館を経て、大正15年10月法政大学図書館事務主任となり、そこで昭和2年7月24日現職死亡している。

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明日の24日(月)から29日(土)の10:00〜19:00(最終日17:00まで)早稲田大学正門前で「14回 青空古本掘り出し市」開催。テント使用で雨天決行(文庫コーナーは中止)。図書館では、26日まで「市島春城展」を開催しているので、そちらも行ってみましょう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20080716。「かきかけ」になっておる。