『戦線文庫』については、益友の書物蔵氏が「http://d.hatena.ne.jp/shomotsubugyo/20070226」で話題にした後、解説*1付きで復刻版が出たりした。『戦線文庫』は、昭和13年9月戦線文庫編纂所から創刊され、20号前後から興亜日本社・戦線文庫編纂部が引き継ぎ、終戦間際にかけて、7年ほど、海軍の将兵一人ひとりに無償で配付されたという。
この『戦線文庫』が、武蔵野美術大学の前身の帝国美術学校校長代理だった金原省吾の日記*2に出てくる。
昭和20年5月6日 それから和田君久しぶりにくる。戦線文庫の編輯。モダン日本社の仕事である。私はここに著述の約束がある。雑談。
11月7日 和田正一君くる。五月麹町の家をやかれ、八月須坂に日本社移転であちらで「戦線文庫」を出すつもりの処、終戦、今もあちらに居るが、やがてこちらに来る由。綜合雑誌と叢書(にっぽん日本文庫)を出す由。
21年3月1日 和田正一君は新日本社、社長軍団責任ありとて退却につき上京せる由。講談社、旺文社皆退却。私のもの古今書院と共に多くの著書埋れる。これもよろしい。
「モダン日本社」は、興亜日本社の誤り*3。同社の社長は大島敬司*4で、麹町区内幸町に所在した。戦後、大日本雄弁会講談社、欧文社(旺文社)、古今書院などとともに公職追放の「G項該当言論報道団体」となった。昭和21年8月に日本社に社名変更したとされる*5。
和田は、興亜日本社の編集者だったようだが、金沢文圃閣から復刻された『昭和21年度版最新出版社執筆者一覧』によると、文藝社の主要事務責任者に同姓同名者があがっている。