神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

戦時下の美術史家−矢代幸雄の場合−(その2)


華北綜合調査研究所の嘱託だったのだろうぐらいに思っていた戦時中の矢代幸雄。もっと深く戦時中の北支の文化工作に関与していたようだ。大蔵公望の日記をさかのぼると、

昭和16年7月16日 六時、錦水に左の人々を招き矢代氏を中心として北支の文化工作に関し色々話す。

          矢代幸雄、柴山少将、永井専学局長、関口泰、松村興文化部長、岡部子爵。
 

  17年10月22日 一〇時、左の人々を集め、今回の旅行の結果を綜合し、北支所在の問題に付論議、綜合研究所の調査事項に付、大体の方針を定めた。伊沢、矢代、秋元、大岩。


永井は、永井浩文部省専門学務局長、関口は元朝日新聞論説委員昭和14年11月退社)で、大蔵とともに国策研究会の理事、松村は興亜院文化部長、岡部は貴族院議員の岡部長景で、元外務省対支文化事業部長。柴山は、元漢口特務機関長で輜重兵学校長の柴山兼四郎か。昭和17年10月時点(既に研究所は設置済み)では、矢代は北京にいたことになる。なお、秋元は同日記17年10月23日の条によると、華北農事試験場長だったようだ。


『大衆人事録第十四版 外地、満・支、海外篇』(昭和18年11月)によれば、伊沢道雄は、明治21年9月生、45年東大経済学部卒。鉄道院の官僚を経て、昭和2年満鉄入社。満鉄理事、華北交通監事を歴任し、昭和17年4月北支那開発(株)調査局長。大岩は大岩銀象と思われ、同事典によれば、明治27年4月生、大正8年早大卒。満鉄に入社。昭和15年に北支那開発(株)に入り、参事兼調査局次長。

(参考)1月17日同月18日
(宿題)独逸東亜協会と矢代の関係

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猫猫先生の担当編集者になると大変そうである。まあ、きちんと仕事をすれば、怒られないのだろうけど。

週刊現代』でツイッターの記事を読む。「あなたはついていけますか」とのことだが、「すんません、ついていけません」。ブログを淘汰せんばかりの勢いだが、書物ブログでは、人のブログを紹介するだけのものとか、新刊情報を転載するだけのものは駆逐されるであろうが、誰ぞのような「調査研究系」の書物ブログは生き延びるか。