岡崎次郎は『マルクスに凭れて六十年』に、華北綜合調査研究所で森岡理事長と伊沢副理事長の間に亀裂が生じ、伊沢が辞任したと書いている。研究所の設立に関与し、顧問となった大蔵公望が、日記にこの内紛について記録していた。
昭和17年6月6日 一〇時、軍司令部に行き、岡村軍司令官と安達参謀長に面会す。伊沢君同行す。
参謀長とは綜合研究所の機構、目標等に就き協議す。大体余の思う通りに賛成を得たが、愈々やって見ると必しもそう行かぬかも知れず、今後伊沢君の苦労は相当なものと思う。(略)
一二時二〇分、北京ホテルに於て伊沢、大岩*1、田中九一、加藤新吉の四氏と会食し、綜合研究所の将来に付協議し、其の熱心なる協力を求める。
8月22日 一〇時三〇分、理研に長岡半太郎博士を訪問し、華北綜合調査研究所の顧問就任方を依頼し、其承諾を得た。
18年5月12日 華北綜合調査研究所の新理事長森岡皐中将来訪、理事長就任の挨拶をなす。
18年7月29日 一二時、北京綜合調査研究所副理事長の伊沢道雄君及矢代幸雄君を京亭に招き会食す。上記研究所が、単に時局関係の調査に堕し、何等研究の実を上げておらぬことを批難す。今秋北支に行った際、此旨を強く軍当局、公使館及森岡理事長に痛言することを約束す。
12月11日 一二時、伊沢道雄、矢代幸雄二氏を京亭に招き昼食を共にし、北京の綜合研究所の運営に関し相談し、今度北京の満鉄調査所が閉鎖されるのを機会に大いに発展す可きをすゝめる。
19年2月17日 京都着、直ちにタクシーにて京大に至り羽田総長に面会し華北綜合研究所の近状を話し、且余も近く顧問辞任の決心なる旨話して了解を求む。羽田博士亦長岡博士の如く「承りおく」と云ふ返事であった。
2月29日 北京の綜合研究所の伊沢副理事辞任に付き自分もそれに関係し同所顧問を辞退する旨、手紙にて森岡同理事長に申送る。
7月1日 四時、矢代幸雄君来訪、北京綜合調査研究所が本気に調査をやらないのなら早くそこをやめが[ママ]よく其時には華北の交通公社*2にて嘱託として採用するからと話す。
8月30日 矢代幸雄、伊沢道雄の両君を帝国ホテルに招き夕食を共にす。
研究所は昭和17年6月9日創立。当初の理事長は王蔭泰、副理事長は伊沢道雄。この日記によって、設立時から大蔵が関与していることがわかる。
森岡皐(もりおか・すすむ)は、昭和16年3月第16師団長、17年8月予備役、18年3月研究所理事長*3。この軍人上がりの森岡と、調査屋グループが対立したとすれば、誰ぞの好きそうな話だが、よくわからない。羽田京大総長(羽田亨)も出てくるが、長岡同様顧問だったのだろうか(追記:昭和17年9月4日の条に「京大羽田総長、華北綜合調査研究所の顧問を引受けしに付き(電報ニテ)其旨北京伊沢氏に打電す」とあった。羽田、長岡は大蔵が副総裁を務める東亜研究所の顧問でもある)。なお、矢代幸雄は、あの美術史家、美術評論家の矢代である。
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