主として飛鳥田市長の下で、横浜市の建築行政を担った田村明の『都市ヨコハマをつくる』(中公新書、1983年1月)も品切重版未定となっているようだ。この田村が、フローレンス・ウェルスと面識があった上、実はウェルスの親友吉田信子の甥に当たるというから、オタどんもびっくり。田村の『都市ヨコハマ物語』(時事通信社、1989年6月)によると、
「のぶ」とは祖母の長女で、私の伯母である。この伯母は子供のときからここへ来て育った。卒業後共立で教え、やはり共立で教えていたアメリカ人の教師、ミス・ウェルスとずっと一緒に生活した。(略)私が横浜の都市づくりをするというと、ミス・ウェルスは、
「弁天通りを復活してください」
と言った。横浜にはそれぞれの思い入れをもっている。ミス・ウェルスは明治四〇年に日本に来て共立学園で教え、古き良き横浜も知っている。一時コロンビア大学で学ぶためにしばらくアメリカに帰っていたが、再び来日。伯母と一緒に住み、第一高女、自由学園、恵泉、実践、津田などの学校で英語を教えていた。大戦中はアメリカに帰還することも断わり、戦争が激しくなると収容所に入れられた*1が、昭和四一年、八十五歳で亡くなるまで半世紀以上にわたって日本に住み、日本のために尽くした。
これを発見したのは、私ではなく、私は、『高良とみの生と著作第8巻 母と娘の手紙』(ドメス出版、2002年4月)所収の高良の両親宛大正7年1月25日付け手紙の注で知った。高良は、アメリカ留学の時に、ウェルスや吉田と知り合い、二人が住む家に一時同居させてもらっている。ウェルスは、星野あいや宮本百合子とも知り合っている(昨年1月20日、同年1月25日参照)から、なんともにぎやかな話である。
滞米中も、帰国後も独身のまま同居を続けたウェルスと吉田の二人組だが、ウェルスの遺品を引き継いだ人がいるとすれば、それは吉田であっただろう。
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絵葉書をシャカシャカする誰ぞを想像してたら、図書館で目録カードをシャカシャカする姿になってた。
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猫猫先生も書いていたし、夕刊にも出てる栗本薫の訃報。先日も久しぶりにアニメのグイン・サーガを見たばかり。原作の新刊の方は、もっぱら「あとがき」を読むだけになっていた。栗本さん、「あなたはわたしの青春そのもの」とまでは言えないが、間違いなく青春の一部でありました。これで「ぼくらの時代」は本当に終わった。
(参考)昨年10月26日