読んだことがあるような気もするが、記憶になかった久保田文次「孫文・梅屋庄吉とインド革命家の交流−バルカトゥッラー、バグワーン・シン、R・B・ボース、波多野春房をめぐって」『史艸』46号*1によって、次のように幾つかの謎が解けるとともに、新たな謎も浮上した。
・孫文の援助者で映画会社「日活」の創業者の一人梅屋庄吉は、ムハンマド・バルカトゥッラー(東京外国語学校教師)が波多野烏峰(春房)の名義で『亜細亜合同論』、『日本よ、何ぞ印度の独立を援けざる』、『累卵の日本』の著書を発行したことを紹介していること*2。
・波多野春房の妻秋子の実父である林謙吉郎は、梅屋とともに「日活」創設当時の取締役であったこと。
・妻秋子が有島武郎と情死した後、春房に再婚話を斡旋した横田千之助は、「日活」の監査役であったこと。
・大正4年には赤坂区台町五十番地に住んでいたこと。また、同年には、太陽通信社という通信社の社長だったこと。
・大正4年6月5日、孫文は春房とともに外出して、春房が主催する松浦伯爵・立作太郎・吉野作造らとの会合に出席し、演説をしたこと。
・保険協会在職中から銀座で画廊「三段社」を経営していたこと。
・昭和9年か10年頃から長野県境村高森(現富士見町)に住んでいたこと。
・敗戦後も高森に住んでいたが、1940年代から50年代初めにかけて、養女の波多野静江とともに高森を去り、新潟か富山に転居したと言われるが、その後の軌跡は不明とのこと。
・参考文献として永畑道子『花を投げた女たち』(文藝春秋、1990年7月)があること。
いや、久しぶりにゾクゾクする論文を読みました。吉野作造との関係も出てきましたね(5月15日参照)。大正4年6月5日の吉野日記には、「四時過より同気倶楽部にゆく 孫逸仙氏の後援をきく 戴天仇君通訳す 松浦伯爵主人として来会」と出ている。新潟か富山に転居したというのは、猫猫先生が「里見とんは、恐らく戦後になって、新潟のほうへ波多野春房を訪ねたと言っている」ことと関係してくる。
大アジア主義者だったということで予想はされていたが、紅野敏郎先生の世界から中島岳志先生の世界になってきた感じである。
波多野秋子を「婦人公論」に紹介して入社させたのは僕なのだ。当時「日本魂」と云ふ雑誌の記者で波多野烏峯といふ男が殆ど毎日の様に僕のところに記事をとりに来たのである。この男は何でも回教に関する翻だか著作だかもして出版したこともあるので名前は前から知つても居たのであるがその波多野が或日「実は僕の女房が学校を出たんですが、文筆の才もあり、押出しも悪くはなく、訪問記者などにしたらもつて来いだと思ふのですが、どこか然るべきところへ御紹介が願へないでしようかといふのであつた。
この他、春房について、六尺以上もあろうかと思われる大男、非常な美男と書いている。