伊藤武雄も紛らわしい名前である。満鉄の調査屋や独文学者に同名の人物がいるが、森銑三が畏友と呼ぶ*1人物も伊藤武雄である。森の『思ひ出すことども』によると、
なほ『日本及日本人』に、人物に関する短篇を発表したりしたところから、それが機縁となつて、東京を中心とする名家の墓碑に精通せらるる伊藤武雄氏と識り、氏からも何かにつけて教を受けるやうになつた。
この伊藤だが、渋谷に住んでいたという*2から、「現代執筆家一覧」*3中の次の伊藤のことと思われる。
伊藤武雄 明治29年生。住所:渋谷区豊分町二、出生府県名:東京、出身校科名:東大政治、職歴:営林局、帝室林野局各事務官、宮内事務官、現職:帝室会計審査官、専攻又は執筆専門項目:国法学、国学、史伝
はてなのキーワードになっていてもよさそうな人物である。
ところで、竹内文献の拝観者の中に宮内省事務官伊藤武雄なる人物がいるが、この人のことだろうか。
(参考)藤原明『日本の偽書』(文春新書)によると、昭和3年3月29日磯原駅のプラットホームに次のような名士一行が姿を現したという。
後年貴族院で天皇機関説批判の急先鋒として活躍した公爵一条実孝を先頭に、海軍大将有馬良橘、陸軍中将筑紫熊七、海軍中将堀内三郎、海軍少将横山正恭といった軍の将星、国家主義者に大きな思想的影響力をもつ金鶏学院の安岡正篤の名代として宮内省事務官伊藤武雄、それに一行を案内する前田常蔵の七名、駅頭には、紋付き羽織姿の高畠が出迎えに来ていた。