神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

もう一人の少年も見た日比谷焼打ち事件


黒岩さんの講演が、30日に開催される。「一九〇五年、戒厳令下の東京」(夏の文学教室「「東京」をめぐる物語 Part 2」)がそれ。女史の『日露戦争勝利のあとの誤算』で、麻布中学三年生だった小林俊三(後に、弁護士、最高裁判事)の日比谷焼打ち事件目撃談が引用されている。もう一人、東京開成中学校一年生だった小寺廉吉(経済地理学者。戦後、桃山学院大学教授)の証言*1を見てみよう。

二重橋の宮城前広場に、恐らく数万人が集まったのだろう。身体の小さい私は、群集の間をもぐるようにくぐって最前列に出た。激烈な調子で高い壇上の弁士は交る交る官僚内閣の屈辱講和を攻撃した。最後にある弁士が右手を指して『あっちに行け!』と叫んだ。そこには政府擁護の記事を書いていた都新聞(現在の東京新聞の前身)の社屋があった。群集はどっとそちらに馳[ママ]けた。私も大いそぎでその方へ馳[ママ]けて、都新聞社と通路で向いあっている石の低い柵の上にのぼった。全部の光景がマル見えである。群集は建物の焼打をやった。さかんに煙が昇る。消防隊が来る、警察隊が大挙して来て群衆をけちらす。私は柵を飛び降りて、無事帰宅した。


小寺は明治25年10月石巻市生まれ。38年4月に開成中学校に入学したばかりであった。
「都新聞」とあるが、正しくは国民新聞。何十年も後の回想なので、どこまで正確なのだろうか。

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『男の隠れ家』8月号の「男の書斎 第64回─宇田川悟」は、天沢退二郎の書斎。

*1:「私のつかのまの空間 77年の回顧と現況(其一)」『桃山学院大学社会学論集』3巻1・2合併号、1970年3月