神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

歴史のかげに「花外楼」あり


大阪会議といっても、日本史で習ったかなあぐらいの記憶しかない。
坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中央公論社、1999年1月)によると、

(前略)大久保が清国から帰国するのを待って、明治七(一八七四)年十一月、井上馨と民撰議院設立建白に名をつらねた古沢滋、小室信夫が会合して、木戸と板垣退助との接近を画策する。(中略)一方、大久保は、以前から木戸の復帰による政府強化を願っており、伊藤にその仲介を依頼した。伊藤は井上と連絡を取り合い、その合意のための素案を作って、大久保、木戸、板垣三者の大阪での会談を企画した。明治八年二月、大久保以下の三者会談が開かれた。いわゆる大阪会議である。
会議の結果、木戸、板垣の参議就任が決定、続けて同年四月十四日には、「漸次立憲政体を立つるの詔」が出された。


場所の記載はないけれど、大久保利通木戸孝允板垣退助三者が集まったのが、大阪の料亭花外楼であった。


この花外楼が、毎水曜日の日経新聞夕刊(関西版)で連載中の「近代大阪の精神 異能の系譜をたずねて」でとりあげられている。→「第4回」、「第5回」、「第6回


第4回に「料亭が歴史の表舞台になったのは、ほかには日清講和条約締結の「春帆楼」(下関市)があるだけだ」とあるが、春帆楼は黒岩さんの『文學界』における「歴史のかげに“食”あり」でも紹介されていたところ。

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ナンパ橋の傍のキリンプラザ大阪、10月で閉館だったのね。一度だけ伊東忠太展で行ったよ。