立ち読みした谷沢永一『性愛文学』に、小倉清三郎が大正2年に創立した相対会について、坪内逍遥ら文人が特別会員だったらしいことが書かれている。
逍遥の日記*1を見てみると、
大正4年9月13日 孤島、相勤の小倉清三郎を伴ひて来る
9月18日 夜、上野精養軒にて相対社の性欲に関係の俗謡の踊研究会に臨む、内田、宮田、久保田米斎、豊住等に逢ふ、西川巳之造を首に一人の年増踊を演ず
歌はよく集められたれど 振の方は格別参考になるほどの事なし
9月27日 小倉清三郎来 劇の濡場の事を話す
5年3月1日 小倉清三郎へ入会を辞して五円を送る
3月11日 小倉清三郎より返書
4月20日 小倉清三郎の件ニ付 早稲田署の某来
大正5年3月1日の条の「入会を辞(す)」というのは、「入会を断る」ということか、「退会する」ということか、どう読むべきなのだろう。
追記:日曜日の読売新聞の「HONライン倶楽部」は萩尾望都の巻で、こんなに投書が来たのは初めてだ、といううれしい悲鳴をあげるほどだったらしい。皆さん、萩尾望都への思い入れが強いみたいね。
そういえば、卒業後お世話になった先輩がいて、むさくるしいおっさんなのだが、「少漫研」に所属していたと聞き、驚いたことがある。わしも、入ろうかと思ったことはあるが・・・
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何年か前の百万遍の古本市で聞いた、古本屋の奥さんと思われる二人の会話。
「昔、ハーレクインロマンスを箱一杯買った子がいたね」
「いた、いた」
失恋でもして、やけ買いしたのかと思ったけれど、どんな子だったのだろう。今でも気になる。
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