神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

町田久成失脚の真相


町田久成については、関秀夫『博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館』(岩波新書)に詳しい。しかし、同書に書かれていない町田に関するネタが三村竹清の日記*1に記されていた。

明治43年1月31日 町田久成氏の不遇となりしはしめは 大久保公の死もさる事なから一ト年京ヲ遊ひし折 其頃京の名妓にておかよお千代の二人あり 其かよの方なりしやニ馴染ミ根引きして本妻とせんとしたる事あり 久成夫人は小松帯刀の女也 妾もありたるなれは妾とする分にはよかりしも この小松氏を出して京の妓女を納れんとしたるより上の人々も異見したるが聞入れざりし これ等が原因也と黒川氏話


「黒川」は黒川真道。大久保利通の死は明治11年5月。町田は12年結婚。15年10月博物局長辞任、22年12月出家、30年9月没。結婚後三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしているという。後添えは千代*2というから、黒川が町田は「かよ」を本妻にしようとしたと言うのは、「千代」の誤りだったか。


三村の日記は、ゴシップネタが満載で面白いのだが、どこまで信用していいことやら。


町田は本好きでもあって、かの反町茂雄編『紙魚の昔がたり 明治大正篇』(八木書店、平成2年1月)所収の「和本屋生活半世紀の思い出」で浅倉屋の吉田久兵衛が、

元老院議官の町田久成先生は始終私共へお出ででした、浅草今戸に御屋敷があったので、店からは近かったのです。先生は内務省博物局長で、はじめて博物館なるものを、今の帝国ホテルの処に開設された方です。(中略)後には、ある御災難から無常を感じ御家族残らず三井寺へ行き、仏門に入られたのです。後によく店へ鼠色の衣で皆さんを連れて来られ、今日は托鉢に来たよと、笑談を言っておられました。

と言っている。


ちなみに同書には、黒川真頼・真道親子も出てくる。「初代文行堂を中心の思い出」で文行堂第二代横尾勇之助が、

真頼さんはお子さんの一人を本屋にしたいというので、おあずかりしたのですが、一ヶ月も辛抱できず、かえってしまいましたそうです。私は知りませんが、親父が話していました。黒川さんのお子さんが小僧に来て見世に座って、文行堂よりうちの方が本が沢山あるなア、と笑っておられたそうで、長男の真道さんの次の方と思います。


と語っている。「長男の真道さん」の注として、「黒川真頼の嗣。古典講習科卒業、四十三年より帝室博物館に勤務、後に鑑査官。編著が少なくない」とある。私は、博物館関係にまで、手が回らないので、関心のある人は、黒川真頼・真道親子から探れば、より詳しい町田久成の辞任の理由が判明するかもしれない。

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銀閣寺・百万遍間で何度も前を通っているが、当然利用したことはない「私設図書館」。図書館史的にはわりと重要な施設だったみたいね(ホンマかいな)。

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大阪古書会館に行きそびれた・・・
中央公論アダージョ』は、「夏目漱石と本郷を歩く」。

*1:『演劇研究』第16号

*2:京の妓女だったかは、未確認。