神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

モダンガールの北澤秀一


斎藤美奈子小谷野敦氏とは、仲がいいのか悪いのか、結局よくわからないが、それはさておき、『モダンガール論』で次のように言っていた。

日本におけるモダンガール(正確にはモダーン・ガール)という語の初出は、関東大震災の翌年の女性誌(『女性』大正13年8月号)に載った、北澤秀一の論文「モダーン・ガール」だといわれている。


この「モダンガール」の初出については、『コレクション・モダン都市文化』シリーズ(ゆまに書房)の『モダンガール』や『セクシュアリティ』の巻末「エッセイ・解題」によると、北澤自身が「モダーン・ガールの表現−日本の妹に送る手紙−」(『女性改造』大正12年4月、北澤長梧名義)や同年1月の『読売新聞』の「滞英雑記」(長梧子名義)で「モダーン・ガール」という語を使用しており、時期は遡るという。


この「モダンガール」を日本で初めて使用した北澤について、菅聡子お茶の水女子大学大学院教授)は、前掲の『セクシュアリティ』で北澤の『近代女性の表現』 (改造社大正12年4月)の「解題」として、

『東京朝日新聞』に掲載された死亡記事「北澤秀一氏逝く」(『東京朝日新聞』一九二七(昭和2)年八月二六日)によれば、「かつて東朝社会部に在り、洋行とゝもに新聞記者を辞し帰朝後はあるひは日活の宣伝部長として映画輸入業として真面目な批評家として専ら映画のために努力した人であ」り、八月二十五日、「軽井沢ホテル」にて死去したという。ほかの各種人名辞典には記載がなく、これ以上のことは不明である。
しかし(中略)北澤秀一は「モダーン・ガール」の語の初出をなした人物としてさまざまな文献で言及されてきた。その意味で、近代日本の女性史を語るうえで欠かせない人物となっていると言える。


としている。


さて、同時代に生きた薄井秀一と北澤秀一。二人の秀一が同一人物だったということはあり得るだろうか。