河東碧梧桐の日記「海紅堂昭和日記」によると、
昭和8年11月23日 うさぎやの弟平井程一君従来塩煎餅屋を営みしが氏ハ小説家希望にて煎餅をやく気のりせず近来うつちやり放しのよしきく 我が家族之を継承してやるべしとうさぎやに相談す 常収入のないアヤフヤな生活よりさういふ手内職で確立した収入を期図するこそ生活の常道なれ 妻ゆり子駿も之を賛成の意向見ゆ
けふもその煎餅の木地を焼いて焼加減をためす(略)
河東碧梧桐は、その後12月30日うさぎ屋の主人の賛成を得られず、煎餅屋をやることは断念している。
後に高名な英文学者となる平井呈一が、煎餅を焼いていたとは知らなかった。英文学者にならず、そのまま、煎餅を焼いていたら、由良君美、紀田順一郎や荒俣宏、ひいては南陀楼綾繁、書物奉行といった方々も別の人生を歩んでいたかもしれないね*1。