神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

平井金三の厄年


漱石研究年表』。これを労作と言わずして何を労作と言うべきか。
しかし、同書にしても不詳とされる人物がいる。
大正5年1月6日の条によると、

野上豊一郎・内田百輭・松浦嘉一連れ立って来る。野上豊一郎、胡桃だけで十二年生きている男の話をする。平井金三(不詳)の奇怪な体験なども伝える。


平井については、その道の専門家のma-tango氏や森洋介氏に聞けばその正体はすぐわかるのだが。
さて、一高時代に平井講師の教えを受けた人物の日記を見てみよう。

明治44年2月27日 五時半ごろ出て、石原、後藤、外に二部の某君と、平井サンのところへゆく。(略)
やがて平井サンが出られ、時候のはなし、紀念祭の余興のはなしがすんだのち、心霊の研究のはなしをされる。/それから石原君が、催眠術をかけてもらふ。そのあとで、あとの三人も一緒にかけてもらふ。某君ハすぐかゝつた。


石原は石原登、後藤は後藤隆之助。
明治44年1月9日の条は、もっと面白い。平井先生は授業をそっちのけで、前年は52歳でいかに自分にとって厄年だったか延々と説明をしている。娘の離婚、失職したこと*1、坊主に祖先の骨をとられ、回復するのに困難をなめたこと、継母の死、遠戚が自分の名前をかたり大変な事をしたことを語っている。


平井のトンデモない授業を受けたこの人物、戦後創設された大阪市立大学の初代総長(後、学長に改称)となる恒藤恭である。引用は『向陵記』(大阪市立大学、2003年3月)によった。

*1:東京外国語学校教授の辞職